小山田圭吾氏の炎上騒動で、僕は「アーティストなんて多かれ少なかれ”そっち側”」と書きました。
一定の反響があり、その中で『お前もミュージシャンなら”そっち側”の考えをもう少し詳しく書くべきだろう』という意見が散見され、確かにそうかもといろいろ考えていました。
ということで、無名ながらミュージシャンが”そっち側”の視点から、社会と芸術・芸術家の関係性を書いてみたいと思います。
念のため言っておきますが、これは小山田氏の擁護でも、反社会性の礼賛でもありません。
また、芸術家の総意でもありません。
あくまで芸術界隈の人間から社会がどう見えているのかという一例としてお読みください。
(小山田氏の件でミュージシャンの意見が全然出て来ないんですよねえ…。まあ、わかるけど…)
芸術の歴史はルール違反の歴史です。
それは古典から近現代のアート、サブカル、YOUTUBE動画など、全てにおいて当てはまります。
あらゆる媒体の芸術を志す者は、いかにセンセーショナルに、そして美しくルール違反をするかに苦心します。
それは芸術上のこととはいえ、言葉にできないほど恐ろしいことでもあります。
ですからほとんどの人は最後の最後で一歩踏み外すことができず、そのために社会から見向きもされずに散っていきます。
そうした人たちは、ある意味ではまともな人間なのでしょう。
ですから、社会的には健全であるといえます。
芸術では社会から無視されるかもしれませんが、社会的な生活や活動ではきっと社会から歓迎される人間であると思います。
社会は人間や企業、団体などに対し強く社会性を求める一方で、こと芸術に関してはわがままにルール違反を求めます。
「もっと逸脱しろ、もっと過激に、もっと大胆にルールを壊せ!知ってるものはいらん、過去の焼き直しはこりごりだ、見たこともないものを見せてくれ!そうして自分たちをこの退屈な日常から解放してくれ!」
社会は芸術にそう要求します。
そうした社会の要求に応えるために、芸術家は己の持てる能力を駆使し、勇気を振り絞って最大限のルール違反を試みます。
芸術に興味を持ち、手を出しはじめると、必ずどこかで社会からの拒絶を経験します。
そのため、多くの者が早いうちにくじけたり、人生設計を修正したりするのですが、くじけずに続けていると、あるとき芸術家は社会と握手できる方法を発見します。
それは、(芸術上の)ルール違反をすることです。
誰も見たこともない、聞いたこともないもの、それでいて美しいものを創造すれば、あれだけ社会から拒絶された自分が、一発逆転して社会と握手できるということを知ります。
そうして、芸術家は社会から承認されるためにあえて社会から距離をおくという行動に出ます。
社会の真ん中にいて、ルールや規範を遵守していてはいつまで経っても芸術家として社会と握手できないという逆説を知ってしまったからです。
一方、社会の方からすればそんなことなどどうでもいいので、社会からずれていく芸術家を見て「やっぱ芸術家って変人ばっかだよね…」と白い目で見てきます。
芸術家が、社会からの暗黙の要請に従い、勇気を振り絞って”そっち側”に一歩踏み出したとも知らずに…
とはいえ、芸術家の方も「社会がルール違反を求めているから、自分が社会的に認められるためにルール違反した作品を創ろう」と論理的に理解して行動しているわけではありません。
ただ、普通のことやってても誰も反応してくれないなーと感じ、やがて技術や見識の成熟と共にオリジナリティを追求する過程で、必ず一度はルールや慣習と対峙する時期が訪れます。
ではどれぐらいのルール違反をすれば芸術家は社会的承認を得られるのか?
細かいことはジャンルによって違うでしょうが、体感でいうと、死の淵においやられるぐらいのルール違反です。
これは実体験から言えることです。
僕の場合は「ギタリスト身体論」というギター教則本で社会的に認められたので芸術作品とは違うのかもしれませんが、本当に「死の淵」とはっきり言えるところまで社会的に追い詰められ、また自分でも意識的にそこに向かっていました。
当時は無名のギター講師が独自のフォーム理論を説くなんてありえなかったし、ギターの奏法を身体操作から紐解くという考え方も存在しませんでした(ネット上にはあったかも)。
そもそも、ギターを研究するという概念もなく、何から何まで普通と違う教則本だったと思います。
色々あって出版できるようになったのですが、今度は人の反応が怖くて怖くて本気でどこかに逃げようかと考えていました。
僭越ながら松本零士氏が銀河鉄道999の公開が怖くて怖くてブラジルのアマゾンに半年ほど逃げようと考えていたという逸話を思い出し、恐れ多くも共感してしまいました。
しかし蓋を開けてみれば驚きと共に共感を持って評されその後11年経ちますがいまだに読まれていますし、「ギタリスト身体論」は僕のギター講師としての基盤となりました。
このことで、僕は創作に対してひとつの基準を見つけ出しました。
社会に認められるものを創るためには、死の淵まで追い込まれるようなルール違反をしなくてはならない
慣れや覚悟不足で一歩、二歩と引いて創ったものは、面白いほど反応が薄れていきます。
しかし、勇気を振り絞って死の淵に近づいていくと、社会からの反応が得られます。
そんなことを続けていると、何かをつくっているときに死臭を嗅げるようになってきます。
創作過程で死臭がしたものは、だいたい後で何らかの反応が生まれます。
人それぞれ分野は違えど、ある程度社会に認められるものをつくっている芸術家は誰でもこのような体験をしているはずです。
それで富や名誉が得られるかどうかはまた別の話ですが。
市井のギター講師ですら社会的承認を得るためにここまで追い詰められます。
僕は30ぐらいで社会に認められた遅咲きの人間なので、いかに芸術上ルール違反が重要であり、社会がそれを求めているとしても、社会的にルール違反をすれば非難され、罰せられるということは理解しています。
ただ、芸術上のことだとわかっているとはいえ、ルール違反ばかり四六時中考えていると、それが現実にも侵食してくることは間違いありません。
だからといってルールを簡単に破っているわけでは決してありませんが、しょうもないルールに対して懐疑的となります。
「ルールはルールだから」と盲目的に守る前に、『このルールなんか意味あんの?』と疑ってしまう自分がいます。
でも『この先いくとヤバいなー』とも思えるので、結局守りますが。
それは、僕がいい歳だからです。
10代でなんもわからないまま衝動的にルール違反した作品が社会に認められたとしたら……
社会は芸術にルール違反を求めるが、芸術家のルール違反は認めないというバイスンダードに気づけなかったら……
そう考えると背筋がゾクっとしてきます。
社会の側からすると、芸術家も社会の一員なんだからルールを守るのは当たり前と考えるのはもっともなことだと思います。
ただ、芸術側の論理からすると、「いや待て、普通のものつくっても見向きもしないだろ?あんたらがルールを破ってほしがるからこっちは命がけでルールを破る方法を考えてきたんだぞ!その結果おかしくなったんだから、ちょっとぐらい……」と一瞬は考えてしまいます。
もちろん、今の時代にそれを公言することはあまりにもリスキーすぎますが。
芸術家が社会において果たすべき責任は当然あります。
だとすれば、社会が芸術家に果たすべき責任というのもある気がします。
芸術にルール違反や逸脱を求めておいて、芸術家が本当にルールを破り逸脱すると急に正義の仮面を被って糾弾というのは虫がよすぎます。
映像も音楽も漫画もドラマもあらゆるアートも、普通の人がつくった普通のものしか鑑賞しないというのなら、芸術家の社会的逸脱を糾弾してもいいのかもしれませんが。
狂った企画の動画を観て笑い、斬新な音楽に酔いしれ、ぶっとんだアートに刺激され、刺激的なストーリーを楽しんでいるのなら、作者がそこに至るまでの苦悩や社会との葛藤を少しでも想像してみてください。
価値ある芸術の裏には、必ず社会からの迫害と扇動(社会の隅っこに追いやっておいて、「もっと俺らが楽しめるものをつくれ」という煽り)が存在します。
そうして社会から追い込まれた芸術家が死の淵を彷徨い、おかしくなった頭で創ったものが、今日あなたが楽しんでいるコンテンツなのかもしれません。
そう考えると、何か不祥事を起こしたときに、許さないまでもほんのちょっとだけ『うーん……ま、社会が追い込んだところもあるだろうし、芸術家は…しゃーないか…』と思ってやる義務は、社会の方にこそある気がします。
もちろん、芸術家の犯罪行為や社会的蛮行を糾弾するのは自由ですが、社会の側の人間が無条件で100%正義でいられるとは僕には思えません。
まあこれも”そっち側”の身勝手な論理で、社会には受け入れられないんでしょうが。