社会や人をざっくりと白と黒に分けるとします。
白は「いい」、黒は「悪い」というイメージです。
個人的に、こうした二元論は嫌いなのですが、今回はあえてここからはじめます。
芸術はどっちに属しているかというと、黒の方です。
なぜなら、美は得てして黒い方に咲くからです。
道徳より背徳、優等生より劣等生、秩序より無秩序、構築より破壊、平和より暴力を美は糧とします。
これは、作品においても作者においても言えることです。
美が黒に属している以上、芸術や芸術家もまた黒に属し、黒から生まれてくることは必然でしょう。
一方、社会は常に白を目指します。
背徳より道徳、劣等生より優等生、無秩序より秩序、破壊より構築、暴力より平和を社会は是とします。
ここに美と社会、芸術と社会の対立が起こります。
社会は常に美より強いので、美を時に迫害し、あるいは優遇し、コントロールしようと苦心してきました。
一方、美はその根源的な魅力で人に取り憑き、その生息域に引きずり込み、時に社会をも変容させるほどの力を発揮して、質の悪いウイルスのように何百年、何千年と生きながらえてきました。
美は、自らが社会と真っ向から対立する力を持ち得ないことを知っています。
と同時に、社会の構成要素が人であるということも知悉しています。
そうして美は、真っ白い世界に静かに忍び寄り、ターゲットを見つけるとその心に黒い沁みを一滴たらし、彼がそれに気づくまで静かに待ちます。
やがて彼がその黒い沁みに気づき、その感触や匂いを確かめようとすると、ゆっくりゆっくり自分の領域に引き寄せ、取り込んでいきます。
美とは狡猾で陰湿なものでもあるようです。
特定の宗教で偶像が禁止されているのもうなずけます。
と、美学風のことをのたまっておいていきなりテイストを変えますが、上記のことを考えると、芸術家・アーティストが黒いのはもうしゃーないことだとしか言えません。
といっても、いじめや差別、薬物、その他犯罪をしてもいいと言っているのではありません。
反社会的行為はしっかりと糾弾され、法の下に裁かれるべきです。
と同時に、そっち側の人間としては、「もうアーティストはしゃーないねんて…」とも強く思います。
ただ、その「しゃーない」は黒い側の論理なので、マジョリティであり権力者である白の住人には絶対に受け入れられません。
昨今は特にそうでしょう。
個人的に不思議なのは、どう考えても黒い側の人が、白のふりをしてそちらの論理に従って黒を断罪していることです。
そちらから美が生まれないことを知っているはずなのに、時代の風潮に迎合して白の論理でアーティストのドス黒い精神を裁く人が信用できません。
まあ、表向きそうしているだけなのかもしれませんが。
先日小山田圭吾氏について書いた記事がバズり、現時点ではてブが120件ほどつきました。
コメントはめんどくさいので読んでませんが、まあ批判や誹謗中傷もかなりあるんでしょう。
改めて、小山田氏を擁護するつもりはありませんし、社会が制裁を必要としているなら受けなければいけないんだろうなと思います。
ただ、一時的にしろそうでないにしろ、ああいう精神の持ち主から得てして美しい音楽が生まれてくるというのは、美の論理からすれば必然であるんだろうなと改めて思います。
だからいろいろひっくるめて「しゃーない」としか言いようがない気がします。
擁護はしない、でも白いふりして糾弾もしない、自分も黒い側だと十分認めつつ、あかんことはあかん、それでも……そのぎりぎりのところが「しゃーない」ラインです。
僕はアーティストの悪をそこで受け止めることにしています。