ラフカディオ・ハーンをご存じでしょうか?
小泉八雲といったほうが伝わるかもしれません。
明治時代に日本に移住し、教員をしながら民話や伝承を研究し、「耳なし芳一」や「雪女」を書いた人物です。
今でもファンが多く、なんと2025年はハーンの日本人妻のハツが主人公の朝ドラが放送決定しているとか。
本記事ではハーンで統一します。
さて、以前ご紹介したブルースの歴史を綴った名著「ブルースの歴史」にて、
突如ハーンの名が登場し驚きました。
以下、抜粋:
1876年、ラフカディオ・ハーンはオハイオ州シンシナチの『コマーシャル』誌上に、同市の堤防際から集めてきた何曲ものラウストアバウト・ソングを掲載した(p23)
「ラウストアバウト」(roustabout)は、船上で肉体労働をする乗組員のこと。
なんと、ハーンはアメリカ滞在時、ブルースに興味を持ち、その歌詞を「コマーシャル」紙に掲載していたそうです。
ハーンはその後1890年に来日。
1904年に亡くなるまで日本で暮らします。
ここでひとつ仮説が生まれます。
日本にブルースを伝えた最初の人って、もしかしてラフカディオ・ハーンじゃね?
以下、この仮説を検証するため、ハーンの人生、ブルースの歴史等を見ていきましょう。
ラフカディオ・ハーン
ギリシャ生まれ。
母がギリシャ人、父がアイルランド人。
2歳でアイルランドに移住。
1869年、19歳でアメリカに移住。ニューヨークに到着した後、親戚を伝ってオハイオ州シンシナティに移住。
1877年、27歳でニューオーリンズに移住。
1890年、40歳のとき来日。以後はずっと日本在住。
1904年、54歳で死去。
かなり端折りましたが、滞在国だけ見ても波乱の人生だというのが分かります。
細かく見るとかなり苦労された様子なので興味ある方はこちらをどうぞ。
小泉八雲の生涯 - 小泉八雲記念館 | Lafcadio Hearn Memorial Museum
本記事では1869年~1877年のシンシナティ時代にフォーカスします。
なぜなら、この時期にハーンがブルースに傾倒していた痕跡が見られるからです。
余談ですが、ニューオーリンズ時代はクレオールに興味を持ち、クレオール料理の研究をし、こんな著書も出版しています。
ちなみにクレオールとはスペイン・フランス系黒人の混血人種やその文化のこと。
ブルースとは少し距離があります。
その後、日本ではご存じの通り民話や伝承の収集家、著述家として知られています。
伝記などは読んでいませんが、著作を何冊か読んだ印象としては、白人特有の優越感を全く持たず、異文化に敬意を好奇心を向けられるフラットな人物という印象です。
逸話としては、シンシナティ時代に当時異人種間の婚姻は違法とされていたにもかかわらず、下宿の料理人アリシア・フォリー(マティ)と結婚し、会社を解雇され、投獄されそうになったとか。
アリシアは黒人のようです。
それぐらい異人種、異文化に対して平等に接することができる人物だったようです。
ではハーンがオハイオ州シンシナティに滞在していた1869年~1877年頃のアメリカを見ていきましょう。
まず、南北戦争が終結したのが1865年。
同年、有名な「奴隷解放宣言」が発せられます。
オハイオ州は北軍に加勢していました。
勝利した側の州ですので、ハーン到着時の1869年は景気もよかったのかもしれません。
また、北部は南北戦争以前の時代から比較的黒人にも自由のある地域として知られていました。
その中でも最南端に突き出たような街シンシナティはケンタッキー州やインディアナ州と隣接しており、もしかしたら南部の黒人たちが目指す最も近い北部都市だったのかもしれません。
政治的には1870年3月に黒人選挙権が憲法によって認められ(憲法修正第15条)、1869年から1876年の間に14人の黒人下院議員と2人の黒人上院議員が国会に送られました(「アメリカ黒人の歴史」本田創造)
また、南部が市場として解放されると北部の資本家たちは南部資本を収奪し、旧南軍士官たちは急進的な黒人抑圧団体として有名な「KKK」(クー・クラックス・クラン)を創設、黒人や黒人に協力する学校、教師などを標的にテロ行為等を行い、1870年頃はそれがピークに達したそうです(同)。
ハーンが滞在していた1869年~1877年は、ちょうど南北戦争の戦後処理が機能しはじめ、同時に新たな問題が発生しはじめた大転換期だったようです。
そんな激動の時代、北部南端のシンシナティに住んでいたハーンは、どのようにしてブルースと接したのでしょうか?
上記「ブルースの歴史」においてはハーンのシンシナティ時代の描写は、引用した部分のみしかありません。
そこで「Rafcadio Hearn Blues」で検索してみると、こういった記事が見つかりました。
2023年7月11日、恐らくウェブマガジンである「シンシナティマガジン」にグレッグ・ハンドというライターが寄稿したもののようです。
見出しを訳すと、『ラフカディオ・ハーンは1876年にシンシナティでブルースを聴いていたのか?』となります。
文中、「Levee Life/Haunts and Pastimes of the Roustabouts/Their Original Songs and Peculiar Dances」(堤防の生活 荷揚げ人足らの溜まり場と愉しみ、彼ら独特の歌と踊り)という、ハーンが1876年5月17日「シンシナティ・コマーシャル」誌に寄稿した文章が引用されていました。
『やった! これは第一級史料だ!』と小躍りしたものの、引用箇所は短く、また記事ではハーンが当時の演奏を録音したとも書いてありましたが、当時録音器機はまだ発明されておりません。
どうも上記記事そのものは資料として疑わしい……。
そこでハーン本人が寄稿した「Levee Life」の全文をネットで探してみると、発見しました。
この中に掲載されてあります。
ケンタッキー大学のアーカイブのようです。
さらにさらに、この「Levee Life」は日本語訳され、「ラフカディオ・ハーン著作集」第1巻に「堤防の生活」として全文和訳されていることも分かりました。
Amazonで800円ぐらいで売っていたので早速ポチ。
初版1980年。
訳者:複数
シンシナティ時代にハーン本人が寄稿した記事の原文と和訳という第一級資料が揃ったので、ちょっと怪しいCincinaty Magazineの記事は無視してこちらを見ていきましょう。
以下、【】内は「ラフカディオ・ハーン著作集」第1巻「堤防の生活」から引用。
1876年、シンシナティ・コマーシャル社に勤めていたハーンは、「Levee」(堤防)で生活する者たちを取材します。
「ブルースの歴史」にはハーンがあたかも趣味でブルースを研究していたように書かれてありますが、実体は奴隷解放後の黒人がどのように生活しているのか、また、謎多き彼らの風習への取材であったようです。
ブルースについてはその一環としてほんの少し、匂わせる程度に記述があるのみ。
さて、堤防生活者らは文字通り堤防に住み、男性は主に荷下ろしの日雇い人足として働きます。
3割は白人、残りは黒人か混血。
でも黒人の方が【人足として遥かに有能】(p136)であるとハーンは書いています。
奴隷解放宣言による解放前、彼らのほとんどは農場労務者であったことから、【彼らの歌や娯楽の中には昔の農場生活の余韻が消し難く残っている】(p137)とも。
もうこの時点でブルースの匂いがプンプンしてきます。
ハーンはそれらを書き留めよう(当時録音機材はまだ存在しない)としますが、黒人人足たちは【鉛筆とノートを手に近づいてゆく者には決して警戒心を弛めなかった】(同)そうです。
そんな彼らを【葉巻とか酒とか、他愛のない賄賂】(同)でなんとか懐柔し、ハーン記者は【かなりの成果を挙げることができた】(同)と満足げに書いています。
その【成果】の中から、音楽に関する箇所のみ抜粋していきましょう。
【荒らかにつまびくバンジョーの響きがみすぼらしいダンスホールの開け放たれた戸口から流れ出す。そんな時季が、グロテスクとピクチャレスクの入り交じったこの波止場人足たちの生の特徴を観察する恰好の時だろう】(p136)
どうやらバンジョーが演奏されていたようです。
また、ダンスホールもあったらしい。
【オハイオ川の人足たちの間で、最も人気のあるのは、次の唄である。メロディは低く、哀愁を帯び、出港や入港の折に黒人の水夫らが一斉に口ずさむと、しみじみと心にしみて来て、一種独特の、甘美な哀愁が漂う】(p140)
【哀愁を帯び】【口ずさむと、しみじみと心にしみて来】【一種独特の、甘美な哀愁が漂う】……と、これだけでもハーンが堤防で聴いた音楽がブルースだと断定しても良さそうなほどブルースの特徴を捉えていますね。
この文章を読んで、僕の中にある予感が走りました。
もしかして、この【哀愁】という単語は、原文では「Blues」と書いてあるのでは……!
早速原文を読んでみると……
(原文)
One of the most popular roustabout songs now sung on the Ohio is the following. The air is low, and melancholy, and when sung in unison by the colored crew of a vessel leaving or approaching port, has a strange, sad sweetness about it which is very pleasing.
残念ながら「Blues」とはどこにも書いてありませんでした。
【哀愁】は原文では【melancholy】と書かれてあります。
また【air】を【メロディ】と訳しているのもちょっと意味不明。
全体的に結構意訳されてますね。
僭越ながら、直訳に近い和訳をさせていただきます。
(拙訳)
現在オハイオで最もポピュラーな労働歌のひとつがこれだ。
空気感は重く、哀愁漂い、そして黒人クルーが出港や入港の際に一緒に歌うと、奇妙かつ悲しげな甘さをもたらした。それはとても心地よいものだった。
ここで「Blues」という単語が使われていないことを覚えておいてください。
ではもう一つだけ歌に関する記述を掲載しておきましょう。
【これら哀調のメロディの中でもひときわ憂愁の羽(筆者注:原文旧字)が濃いのは、「おお、我が船は行く」という歌詞で普通歌われる、次の唄である。大体が出稿に際して歌われる別離の歌で、実際にその時に臨めば、哀感はそぞろ胸に迫る)】(p143)
これも【哀調】の原語はやはり「melancholy」となっています。
(原文)
The most melancholy of all these plaintive airs is that to which the song
"Let her go by" is commonly sung. It is generally sung on leaving port, and
sometimes with an affecting pathos inspired of the hour, while the sweethearts of the singers watch the vessel gliding down stream.
こうしてハーンは堤防生活者たちの風俗を事細かに取材し、記事を完成させています。
その描写は実に細かく生き生きとし、まるで当時の黒人の生活が目に浮かぶようです。
興味のある方はぜひ「堤防の生活」をお読みください。
今度はハーンがシンシナティで「堤防生活者」の音楽を観察していた1869年~1877年頃のブルースを紐解いていきましょう。
その前に、Blueという単語について。
元々は「青」という色を意味する単語でしかありませんでした。
しかしご存じの通り、現在では「憂鬱」という意味でも使われています。
ではいつからBlueに「憂鬱」という意味が与えられたのか?
実は文献上の初出ははっきりしています。
「ブルースの歴史」によると、シャーロット・フォンテーンという北部生まれの黒人女性教師が1862年12月14日に書いた日記に「With the Blues(憂鬱と一緒に)」という表記があるそうです。
これが恐らく「憂鬱」という意味でBlueが使われた最初の記述とされています(2024年現在では新資料が出ているのかも)。
また、Blue=憂鬱はシャーロットが造った言葉ではないでしょうから、もう少し前から黒人の間で使われていた表現だったと推察できます。
その後、Blue(憂鬱)を表現した音楽を「Blues」と呼称するようになっていったのは周知の事実。
この事実から、ハーンのシンシナティ滞在時(1869年~1877年)に憂鬱を意味するBluesという言葉が存在していたのは間違いありません。
ただ、ハーンはシンシナティでそれらしい音楽を取材したにも関わらず、それらを「ブルース」、「ブルースマン」と呼んではいません。
おそらく黒人の演奏家ら自身も、まだ自分達の音楽が「ブルース」だと認識していなかったからだと思われます。
ではハーンが聞いた堤防生活者たちの音楽は、いわゆるブルースではなかったのか?
ここは想像するしかありませんが、ハーンの記述を読むと彼らの音楽は、
・哀愁、哀調
・悲しげ
・重い空気感
・甘さ
・(ヨーロッパ人のハーンからして)奇妙
・黒人が演奏している
という特徴があるようです。
これはブルースの特徴と完全に一致します。
僕個人としては、いちミュージシャンとして、ハーンがシンシナティで聴いた堤防生活者の音楽はブルースであると断定したいと思います。
もしかしたらバンジョーを弾いていたという記述に引っかかっている人もいるかもしれませんが、初期ブルースはバンジョーやマンドリンなども使われていたそうです。
なお「ブルースの歴史」によると、南北戦争直後の時期は、フィールド・ハラー(一人で歌う労働歌)が徐々に現在でいうブルースの形式に近づいてきた頃らしいです。
ハーン滞在時、シンシナティの「堤防生活者」たちが奏でる音楽は、おそらくまだ「ブルース」と呼ばれていなかったもののようです。
それが後々ブルースというジャンルとして確立されていくのですが、ではハーンは自分が聴いた音楽がブルースであると後々認識したのでしょうか?
ここは想像するしかないのですが、たぶんしていなかったと思います。
それどころか、シンシナティから離れニューオーリンズに行った時点でもうハーン先生の興味は「堤防生活者」から離れた節があります。
その一つの証拠に、彼はニューオーリンズではクレオール料理に夢中になっていたようで、こんな本まで出しているからです。
また、その後日本で民話や伝承に夢中になっていたことは周知の通りです。
どうもラフカディオ・ハーンという人はその土地土地の土着的な風俗に心酔する性質を持っていたようです。
そして、新天地にそれを持ち込まない人でもあったようです。
ハーンが「堤防生活者」の音楽をニューオーリンズで紹介したり、またニューオーリンズの「堤防生活者」またはそれに準ずる人々の音楽を取材した記録はたぶんありません。
また、ハーンが日本にクレオール料理を持ち込んだり紹介した記録もたぶんありません。
上記全てをふまえて、以下の結論が導き出せます。
ラフカディオ・ハーンは、初期ブルースらしき音楽を生で体験した数少ない”日本人”(最終的に帰化)ですが、恐らく彼はその体験や知識を日本に伝えていないと考えられます。
以下その理由:
・ハーンが聴いた音楽はまだブルースとして成熟していない
・ハーンがシンシナティにいたとき、まだ録音技術はなかった
・ハーンは新しい土地の土着的なものに興味を抱く性格
・クレオール文化は本にしたが、堤防生活者は勤め先に記事を寄稿した程度なので、興味は薄かったと想像できる
・ハーンが日本人にブルースを伝えたという伝承、記述はない(たぶん)
・ハーンの日本滞在時(明治23年~37年)に日本にブルースを理解する土壌があったとは思えない。
・最初のブルースレコードが発売されたのが1920年(メイミー・スミス「Crazy Blues」)。ハーンは1904年没。
恐らくハーンは、知識人や学校の生徒などに「堤防生活者」の音楽や文化について話すことはあったでしょう。
しかし、それを「ブルース」と認識していたかどうか微妙だし、さらにそれに食いついて理解を深めたり研究する日本人が明治にいたかどうか……。
仮にいたら何らかの資料を残しているはずですが、それも不明。
結局、
ハーンはシンシナティ滞在時にブルースの源流らしきものを見聞きしたようだが、それを日本には伝えていない
という結論になりました。
「ブルースの歴史」でハーンの名前を見たときは驚き、もしかしてハーンが最初に日本にブルースを伝えたのでは?と一人で興奮していましたが、調べてみるとどうやら違うようです。
まあでもあれこれ調べてアメリカ史やブルース史、そしてハーンについて少しだけ理解が深まったので個人的には有意義な考察でした。