先に言っておくと、今回は批判的な内容です。
アーティストや曲を批判するとファンの人から攻撃されたり嫌がらせを受けたりするのであんまりやりたくないのですが、今回はちょっとどうしても書きたいので。
念のため言っておくと、個人的にこのアーティストに恨みはありませんし、ファンの人を蔑む気持ちもありません。
ただ前からに『気持ち悪い歌詞だなー』と思ってきただけです。
メロディは美しいと思いますが。
あと、今回フェミニスト的な論調になりますが、僕はフェミニストではないのでご了承ください。
*公式動画がなかったのでMay Jさんのカヴァーを貼っておきます。
YOUTUBEにはH2Oの動画があります。
古いアルバムの中に 隠れて想い出がいっぱい
普通に読めば理解できる内容ですが、個人的には【隠れて】という表現が気になります。
アルバムって【想いで】そのものなので、別に【隠れて】はいませんよね……
あと【想いでがいっぱい】というのもなんか直接的すぎていきなりしらけます。
小学生の日記みたい。
ただ、【古いアルバム】としていることで、過去を回想しているという示唆は、世界観を簡潔に表しており、ちょっと秋本康的なキレを感じなくもないです。
無邪気な笑顔の下の 日付けは遥かなメモリー
アルバムをめくると、無邪気な笑顔の写真がたくさんあるようです。
それらはどうやらだいぶ昔の写真で、見ていると心の奥に眠った記憶(【遥かなメモリー】)を呼び覚ますようです。
ここも分かりやすく、また小説のようなたっぷりとした時間が含まれていてとても秀逸です。
時は無限のつながりで 終わりを思いもしないね
ここがちょっと解釈が難しいですね。
なぜかというと、主人公像が一切見えないからです。
現時点で分かるのは、誰かが誰かのアルバムを見ているということ、アルバムの中に【想いでがいっぱい】と言っていることから、アルバムを見ている人物とアルバムの中の人物には関係性があるということです。
そう考えると、アルバムを見ている人物とアルバムの中の人物が【無限のつながり】を持っているということを述べているのがなんとなく分かります。
つまり、同一人物ということが言いたいのでしょう。
【終わりを思いもしないね】とは、時間はこれからも永遠に継続していくという意味でしょう。
アルバムに閉じ込められた過去、それを見ている現在の自分、そしてこれからも続いていく時間、未来……
なかなか大きな世界観を持った歌詞です。
手に届く宇宙は限りなく澄んで 君を包んでいた
ここで新しい情報が出てきます。
【君】という呼称です。
さて、誰が誰に【君】と言っているのでしょうか?
既に分かっていることは、アルバムを眺めている人物がいるということです。
後に分かりますが、この【君】は女性です。
さて、どうやらその女性を客観的に眺めている人間がこの歌詞には存在するようです。
仮にこれを〈ナレーター〉と呼ぶことにします(なぜならこの人物は最後まで謎だからです)。
せっかく美しく簡潔で、世界観の大きな歌詞に、突然謎の人物が現れ、アルバムを眺める女性を解説しはじめます。
なんだかサスペンスじみてきました……
さて、その〈ナレーター〉が【手に届く宇宙は限りなく澄んで 君を包んでいた】と説明しています。
これはどういうことでしょうか?
歌詞を最後まで読むと分かりますが、まずこの〈ナレーター〉は【君】を主体性のない子供扱いし、下に見て、まだ大人になれない世界の狭い人間だと断定します。
そこから考えると【手に届く宇宙】とは「お前の宇宙は手を伸ばせば届くほど狭いもの」=「狭い世界で生きている人間」と言っていることが分かります。
【限りなく澄んで】は、これも後で分かりますが、価値観のおしつけです。
この〈ナレーター〉はどうも【君】あるいは少女を無垢で世間知らずで夢見がちな存在だと勝手に決めつけている節があります。
そういったところから、この〈ナレーター〉は男性であると考えられます。
歌手も男性なのでこの点に特に疑問はないでしょう。
ここで一度本作に登場する人物の関係性を再考しておきましょう。
図にするとこのようになります。
作中、【君】自身は一言もしゃべらず、意思を発することは一切なく、【君】に関しての全てはこの〈ナレーター〉である男性が断定し、解説しています。
ちなみに、この〈ナレーター〉と【君】の関係性は最後まで分かりません。
そう考えるとサスペンスが若干ホラーじみてきます。
それを念頭にサビに進みましょう。
大人の階段昇る
本作のパンチラインですね。
大人になる苦しさや寂しさと、階段を一歩一歩上っていく負荷がとてもよくマッチした秀逸な表現です。
が、
改めて冷静になって考えてみると、疑問が湧いてきませんか……
お前、誰やねん
【大人の階段登る】とは、〈ナレーター〉が【君】に言っていることは明白です。
この〈ナレーター〉が誰だか最後まではっきりしませんが、【君】=まだ大人になりきれていない少女に対して上からものを言っていることから、大人の男性だと想像できます。
誰だかわからん大人の男が若い女の子に対して「大人の階段のぼる~」とか言ってる姿を想像すると気持ち悪くないですか?
仮に親でもなんか変ですよね。
彼氏でも気持ち悪いです。
君はまだシンデレラさ
ここは【シンデレラ】をどう解釈するかによります。
その答えは次にあります。
幸福は誰かがきっと運んでくれると信じてるね
どうやら〈ナレーター〉にとって【シンデレラ】=【幸せは誰かがきっと運んでくれると信じてる】存在、つまり無知で夢見がちな少女と思っているようです。
本来【シンデレラ】は、虐げられた存在だがその心の清らかさによって真の幸福を獲得した女性なのですが、〈ナレーター〉にとってはその帰結はさておき、どちらかというと蔑みの対象になっているようです。
ここをしっかり押さえておかないとこの歌の真意を勘違いしてしまいます。
少女だったといつの日か 想う時がくるのさ
最後にまた謎の上から目線で締めています。
【大人の階段】を上りつつも、自分がまだ【シンデレラ】=無垢で無知で夢見がちな少女だったと【君】もいつか気づく日がくるよ……と〈ナレーター〉は自信たっぷりに告げます。
さて、ここまで読んで感じたことは、この〈ナレーター〉はどうも女性経験が極端に乏しそうだということです。
特に少女を無垢で純粋なものと断定し、夢を見ながら幸福をただじっと待っているものと信じて疑わないところがかなり童貞臭く、もっと言えば引きこもりの匂いさえします。
まともに女性と付き合ったことがある男性なら、少女の残酷さやずるさや、心に抱えた闇、ただ待っていると見せかけて水面下で計略を張り巡らす独特の知略、男性には計り知れない意外な世界の広さ等々を垣間見、背筋を凍らせた経験が一度はあるはずです。
百歩譲って交際経験がないとしても、普通に学校に通っていれば高校生にもなれば少女にはそういった一面があるということぐらい分かるはずです。
なので、この〈ナレーター〉の少女像を見ていると、どうしてもまともに女性や社会と関わってきたとは思えません。
そういったことも踏まえて、2番に進んでみましょう。
キラリ木曳れ陽のような眩しい想い出がいっぱい
またアルバムをめくる【君】に戻ってきます。
ここはポップソングらしい秀逸な表現が光り、ほっとします。
一人だけ横向く記念写真だね 恋を夢見る頃
その中に【一人だけ横向く記念写真】があったのでしょうか。
恐らく反抗期の家族写真なのでしょう。
〈ナレーター〉はまたこれを【恋を夢見る頃】とうっすらと上から断定します。
大人の男が少女の反抗的な写真を見て「恋を夢見るころだね」と言ってる姿を想像してみましょう……
硝子の階段降りる 硝子の靴シンデレラさ
ここが本作一番の謎パートです。
【硝子の靴シンデレラさ】はいいとして、【硝子の階段降りる】がどう考えても意味が分かりません。
歌詞としては一番の【大人の階段昇る】との対比なのでしょうが、そもそも【硝子の階段】って何なんでしょう?
シンデレラにも「ガラスの階段」というものは出てきません。
調べてみると「シンデレラ階段」と呼ばれる階段があるそうですが、ただそれはガラスではないようです。
また、歌詞ではその【硝子の階段】を【降りる】としていますが、何で降りたのでしょうか?
そこにどんな象徴があるのか……
ここはどれだけ考えてもそれらしい解釈が見つかりません。
そもそも【君】は人として【大人の階段】を昇っていて、これからもそれを昇り続けるはずです。
そこから【降りる】とすれば、それは死以外考えられないのですが、ここへ来て主人公が自殺するというのも想像できません。
仮に【硝子の階段】を降りることが少女でなくなることの暗喩だとしても、それは【大人の階段昇る】で説明されています。
【硝子の階段降りる】って何なんだ……?
さらに、【硝子の階段】、【硝子の靴】と硝子が連続しているのもなんか不格好です。
普通文章は小説でも詞でも同じ言葉を不要に連続しないように気を付けます。
あえてそうするとしたら、そこに明確な意図や効果がないといけないのですが、本作で【硝子】が連続することに意味があるとは思えず、なんとなく当てはめたようにしか感じられません。
本作は【手に届く宇宙】とか【大人の階段昇る】といった秀逸な表現がある一方で、【隠れて想い出がいっぱい】【硝子の階段降りる】などと不用意な表現がひょいと出てき、緊張感のなさを露呈します。
なんとなく、締め切りに追われて焦って作ったようなイメージが浮かび、世界観にどっぷり浸ることを拒まれている感じがします。
踊り場で足を止めて 時計の音気にしている
ここはシンデレラのストーリーを踏襲しているのでしょう。
シンデレラは12時になると魔法がとけてしまいます。
それと、【大人の階段】を昇っている【君】が、自分にかけられていた少女という魔法がもうすぐとけてしまうことを気にしているのをかけているのでしょう。
これもなんか童貞臭いですね。
女性は誰でも少女であり続けたいとする男の妄想を歌っているようにしか思えません。
そもそも、少女という魔法がとけてしまう云々というのは女性の内的な問題であり、それを男性が外から指摘しているのはやはり気持ち悪いです。
少女だったと懐しく 振り向く日があるのさ
締めに「君も大人になったら分かるよ」とまたおじさん臭い説教……
余計なお世話だと感じるのは僕だけでしょうか?
この〈ナレーター〉はきっと、キャバクラやガールズバーで若い女の子つかまえてこうした説教をするのが大好きなんでしょう。
大人の階段昇る 君はまだシンデレラさ
幸福は誰かがきっと運んでくれると信じてるね
少女だったといつの日か、想う時がくるのさ
少女だったと懐しく 振り向く日があるのさ
最後に〈ナレーター〉の妄想と上から目線の説教を繰り返して終わり。
結局この〈ナレーター〉が誰かは分からずじまいです。
美しいメロディとノスタルジックな世界観、ロマンティックな言葉でなんか騙されてしまいますが、よくよく内容を分析すると引きこもり童貞の妄想説教ソングでした。
逆に考えれば、そうした内容の詞がここまで美しい楽曲に昇華されるというのが音楽の不思議なところだと言えるでしょう。
マッキーの「宜候」が全然反省してないのになんかキラキラして前向きに聞こえるのとおなじ原理です。