久々にジャズの文献を読んで改めて感じたことは、ジャズという音楽には最初から”拒絶”の意志が含まれているという点です。
特にビバップ以降、ジャズは”拒絶”の意志と共に発展してきたといえるでしょう。
こんにち、ジャズが「とっつきにくい」「なんか怖い」「めんどくさそう」と感じるのは、この”拒絶”に由来するものだと考えられます。
ミュージシャンに対しては、楽器の演奏が上手いのは当たり前、さらに今起こっている最新の音楽的な出来事(新しいリズム、新しいハーモニー、新しいサウンド)を十分理解できていないとセッションに参加すらできない、というのがジャズの世界の不文律であり、今でもそういった雰囲気は残っています。
僕自身何度もジャムセッションに参加しましたが、”拒絶”の意志が全くないセッションはほとんど記憶にありません。
特に海外はそれが顕著です(だから参加するのは本当に勇気がいります)。
また、ジャズは観客に対しても基本的に歩み寄るという姿勢はなく、ミュージシャンですら理解できない人が多い音楽実験をそのまま見せ、それ自体をエンタテイメントとし、「分からないやつは来るな!」と暗に拒絶します。
もちろん表向きは観客を楽しませるエンタテイメントとしていますが……。
このへんは、被差別人種が創造した芸術故のややこしさなのでしょうか。
そういえばマイルスの自叙伝などを読むと、ジャズシーンには常に非黒人への差別や中傷、いわゆる逆差別のようなことが蔓延していたようです。
これは人種的な”拒絶”です。
もちろんこうしたことは表だって宣言されていたわけではありません。
しかしながら、こうした”拒絶”の意志は、ジャズを知れば知るほど浮き彫りになってきます。
そうして、ジャズを演奏できるようになったり、演奏はできないけど十分語れるようになると、ジャズメン・ジャズファンはこの”拒絶”の意志に乗っ取られてしまいます。
ジャズミュージシャンのどこか偉そうな態度、排他的なシーン、ジャズファンの説教口調やにわかを拒絶するようなマウンティング発言は、ジャズが内包する伝統的な”拒絶”の意志に乗っ取られた結果といえるでしょう。
ちなみに僕もジャズミュージシャンをやっていたときはどっぷり”拒絶”の意志に浸っていました。
しかしジャズをやめ、ジャズ批判をブログ等で書き始めてからようやくジャズという音楽を相対化できるようになり、ジャズが持つ”拒絶”の意志から開放されたことを実感できるようになりました。
僕が書くジャズの記事がある程度の反響を得られるのは、”拒絶”の意志から開放されたことによる軽さ、わかりやすさだと考えます。
実際、ジャズミュージシャンをやっていたときは見向きもされなかったし、僕にジャズを習いに来る人なんていなかったのに、今ではジャズミュージシャンから相談されたり、教室にジャズを習いに来る人がかなり増えています。
また、僕自身もジャズミュージシャンをやっていたときより今の方が何倍もジャズが好きになっていますし、楽しめています。
ジャズを広めたい、衰退を食い止めたい、あるいはジャズでもっと仕事を増やしたいという人は、まずジャズが持つ”拒絶”の意志をしっかりと見つめるべきでしょう。
そうして徐々にそれを取り除くようにしていけば、必ず反響は得られると思います。
ブログで書いてるだけの僕にすら人が集まってくるようになったので。