何かを目指していて、内心ひそかに見下していた人間が結果を出したり、自分の中で自分より下に位置付けていた人が評価されているのを見ると、誰しも『なんでこんなやつが』と嫉み、憤ります。
僕もそう思ったことは何度もあるし、言われたことも何度もあります。
実はこの『なんでこんなやつが』は、自分の認識を再構築し、レベルアップを図れるチャンスでもあります。
その辺について考えてみましょう。
『なんでこんなやつが』という嫉みが怖いのは、その先に認識の歪みが待っているからです。
それはだいたい下記の2パターンです。
①
なんでこんな奴が評価されているんだ?→世間はいいものを正しく評価できない→こんな世の中はおかしい!
②
なんでこんな奴が評価されているんだ?→実力やセンスがない(と自分が思い込んでいる)のに評価されているのはおかしい→あいつはきっとズルをしたんだろう
この時点で認識がかなり歪み始めていますし、さらに進むと周りから孤立したり、対象を攻撃してしまうこともあります。
そうならないために、あるいは既にそうなってしまった人は、根本的な認識をまず改める必要があります。
まず大前提として、世間というものはそれなりに公平にできています。
いいものを作ったらだいたい評価されるし、そうでなければ無視されます。
また、一時的にバズったとしてもしょうもないものはすぐに忘れられてしまいます。
一方、本質的なものは細々とでも残っていき、評価されます。
これは一度世間の評価を受けてみれば分かることです。
ただ、一度も評価らしい評価を受けたことがないと、時間と共にだんだん認識が歪んでいきます。
誰も分かってくれない、分かるやつがいない、時代が追いついていない、世間が馬鹿だから、一般人はセンスがない……
もちろんそういう事例はありますが、99%は違います。
自分が評価されないのは自分のやってることの価値が低いからです。
だから世間が見向きもしてくれない、誰も評価してくれないというだけです。
まずそこをしっかりと認識する必要があります。
世間の評価がおおむね公平だとすれば、そこには何らかの正当性があるということになります。
イケメン・美女だからというケースもあれば、たまたま時流に乗った、有名人がシェアしたというケースもあるでしょう。
しかしそれはそれで一つの正当な評価ではあります。
また、内容はたいしたことないけど、独自の戦略が功を奏して世間に認知されたという場合もあります。
もちろん、内容の重要性や有益性を世間が高く評価して認知されたということもあります。
いずれにせよ、どんなものであれ世間の評価には学ぶところが必ずあるということです。
さて、世間に評価されている人に対し『なんでこんなやつが』と思ってしまった場合、そこに自分が全く知りもしなかった世間の反応や評価基準があるということです。
その驚きが『なんでこんなやつが』という嫉みになって表出していると考えていいでしょう。
逆に考えれば『なんでこんなやつが』と思ったとしたら、そこに新しい何かを学ぶチャンスが潜んでいるということです。
ですから、嫉むのをやめてそこから何かを学べば認識が広がり、自分が一つレベルアップできるはずです。
僕の例でお話しましょう。
2009年に刊行した「ギタリスト身体論(1)」は、ギター界にかなりの衝撃を与えました。
同時に、ご多分に漏れず『なんでこんな無名の田舎講師の本が…』という人もいました。
しかし近年、本書から影響を受けたであろう人が後々ギターと身体操作を絡めて独自のフォーム理論や脱力理論を提唱しているのを見るようになりました。
おそらくそれまでほとんど存在すらしなかった楽器の演奏と身体操作という分野に触れ、衝撃を受けて認識を改め、独自の道を進むことを決意したのでしょう。
もしかしたらその中の一定数の人は最初『なんでこんなやつが』と思っていたかもしれません。
そこから認識を改めることができたとしたら素晴らしいことだと思います。
逆に『なんでこんなやつが』『こいつにできるなら自分にだってできる、自分の方がもっといいものができる』としてギターと身体操作について研究・発表している人もいるかもしれません(それっぽい人は何人か知っています)。
それはそれでいいことかもしれません。
さて、『なんでこんなやつが』には認識を改め、レベルアップ出来る要素が詰まっていることは理解できたと思います。
ただ、最大の難関は自分が見下している人間に対する評価を受け入れないといけないことです。
これは相当難しいと思いますし、20代ではほぼ不可能でしょう。
僕も30過ぎてだんだんそういうことができるようになってきたような気がします。
もしかしたら世間に評価された経験がなければ今でも誰かに対して『なんでこんなやつが』と思っていたかもしれません。
ちなみに今は世間的に評価されているものに対しては、理解できなくても何かいいところがあるんだろうなと思えるようになっています。
その上で好きか嫌いかはまた別ですが、嫌いな何かでも世間の高評価は認められています。
そういった柔軟性はたぶんレッスンに還元されていると思います。
まだ評価されていない人、しかも自分が見下していた人が評価されている人は、容易に「(あいつを評価している)世間がおかしい」という考えに陥ってしまいますが、そこに矛盾が存在することを見落としています。
「世間がおかしい」と非難する人も、そう思いながら実はその世間に認められたくて仕方ないのです。
そして、いざ自分が世間から認められたら、ついさっきまでおかしいと非難していたことをコロっと忘れて世間の評価を全肯定し、感謝し、「世間は正しかった」と安堵するはずです。
つまり「世間がおかしい」というのは、本気でそう思っているのではなく、自分への評価がないことへの子供っぽい当てつけでしかないということです。
自分を評価する「世間」は間違いなく手放しで認めるんだから、それなら自分を(まだ)評価してくれない「世間」もちゃんと認めるべきでしょう。
なぜなら自分を評価してもしなくても「世間」は同じ「世間」であり、それなりに公平で中立だからです。
そこからの評価を受けたいと願うなら、まだ自分を評価しない、自分が見下している人間を評価する「世間」をしっかりと認める必要があります。