マイナスの感情にもそれなりの価値はあります。
怒りが人に勇気を与えたり、社会をよき方向に向かわせるきっかけになったり、嫉妬が努力の源となることや、関係性のスパイスになることもあります。
また、恐怖は危険回避につながるし、不安から何かが生み出されることも多々あります。
ただ、個人的にこれだけは何の役にも立たないと思うマイナス感情が存在します。
私見ですが、卑屈さだけは何も生まないし、何の役にも立ちません。
「どうせ自分なんて」
「誰々さんはいいけど自分は」
「所詮自分はこの程度」
「なんで自分だけ」
と、書いているだけで虫酸が走ってきます。
もちろん、何かを目指していて一時卑屈になってしまうことは誰にでもあります。
しかし、卑屈なまま成長し、何者かになった人を僕は見たことがありません。
卑屈さの最大のデメリットは、人を遠ざけることです。
以下、人がなぜ卑屈な人間を敬遠するかを書いてみます。
「どうせ俺なんて…」と卑屈になっている人間が近くにいると、自分はなぐさめ役に回らないといけなくなるので、めんどくさいです。
まあ、それが一時のものなら親身になれますが、ずっとは疲れるので、ある程度構って疲れてきたら距離を取るのは当然でしょう。
そうして親身になってくれた人が離れていくと余計に卑屈になるという悪循環も生まれます。
質の悪い人の場合、相手の気持ちを測るためにわざと卑屈になって試すこともあります。
そうなるともう何らかの精神疾患の可能性もあります。
怒りや嫉妬は共感を生むことができますが、卑屈さは、相手の共感を拒む性質を持っています。
「どうせ自分なんて」と言っている人に対し、こちらも「どうせ自分なんて」とはなかなかなりませんよね。
卑屈な人に対すると、共感を遮断され、なぐさめ役を強制されるため、長く続くとやはりめんどくさくなって距離を取ってしまいます。
そうして卑屈な人間は孤独なまま、より卑屈になるというループにはまります。
卑屈な人間には独特の醜さがあります。
それは、単なる容姿とか発言、態度の醜さではなく、もっと根源的な、人が本能的に避ける類いの醜さです。
そうした醜さを持った人も、過去に何度も見てきました。
容姿が悪いわけでもない、ことさら態度が悪いわけでもない、だから理性では問題ないと判断しつつも本能が避けようとする類いの人。
と、卑屈でいると他人が本能的に自分を避けていくので、何事も上手くいきません。
そしてさらに卑屈さが増すという無限ループになります。
昔ですが、卑屈な人と距離を取らずにずっと友達でいたことがありました。
僕も子供だったのでめんどくさいなーと思ってはいたものの、まあ友達だしいっかと暢気に構えていました。
すると、そいつの卑屈さが研ぎ澄まされて武器となり、あるときから僕を攻撃しはじめました。
ミュージシャンを目指して努力していた僕を卑下し、ののしり、足を引っ張ってきたので、これはダメだと思い、勇気を出してきっちり縁を切りました。
その後その人がどうなったのかは知りませんが、今思い出してみると「怖い」とか「嫌だ」、「迷惑」というより、「醜い」という記憶が一番強いです。
あんな醜いモノに二度と近づきたくないという感情がずっと僕の中にあります。
もちろん、一般的な容姿の美醜ではありませんが。
一般職も芸術も、怒りや嫉妬、承認欲求、焦燥感、劣等感などがエネルギーになることは多々あります。
ただ、卑屈さだけはどうしたってマイナスにしかならないと僕は考えます。
じゃあどうしたら卑屈じゃなくなるのか?
それは今のところ分かりません。
慰ても変に依存したり試してくるし、かといって突き放したら余計卑屈になる……。
たぶん、何かのちょっとした成功体験がきっかけで変われるんでしょうが、卑屈な人がその成功体験を得ることは普通の人よりも難しいでしょう。
この辺は今後小説の主題として取り扱ってみたいと思います。