楽器を練習し、だんだんレベルが上がってきてそれなりに活動できるようになってきたとします(プロかどうかは別)。
すると、どこかの時点で、必ず見えない壁が現れます。
技術も知識もそれなりにあるし、活動もできている。
でも、何か違う。
違うことはざっくりと分かるけど、その”何か”が何なのかが分からない……
もっと練習して技術を磨き、知識を増やし、自分に負荷をかけていろんな活動をしてみる、今まで聞いてこなかった音楽を聴いてみる、ワンランク上の楽器を無理して買ってみる、新たに先生を探して習ってみる……と、やれることは全部やってみたものの、やっぱり何か違う……
しかし、やっぱり”何が”違うのかがわからない…
そういう人は意外と多いと思います(横浜ギター教室にもよくいらっしゃいます)。
簡単に説明すると、別次元から音楽が見えていないことが原因です。
上記のようなミュージシャンは、音楽的技術、音楽的知識、音楽的マテリアル、音楽的伝承からしか音楽が見えていません。
それ故に人よりも上達することはしますが、同時に自分をあるレベルに制約し続けています。
そこで、別次元から音楽を見る必要があります。
イメージ、匂い、空気感、時代感、ファッション、アート、文学、哲学、社会といった観点から音楽を見る(鑑賞する)ことです。
分かりやすいところでいうと、イメージから音楽を捉えてみます。
音楽に熟練すればするほど、ミュージシャンは音楽を記号と時間でコントロールしようとしてしまいがちですが、一旦そこから離れて、その音楽が持つイメージをぼんやり理解するようにしてみましょう(はじめて音楽に興味を持った子供の頃のように)。
コードを記号として理解し、分解や解体、あるいはスケールで征服しようとせず、そのコードが楽曲の特定の部位で使われることでどんなイメージが浮かぶのか、自分が作ったサウンドがその楽曲のイメージとどう溶け合ってあるいは反発しあっているのか……。
そうした視点を複数持ち、膨らませていくことで、自分を成長させ同時に抑制してきた音楽的な能力が一旦崩れ落ち、その残骸により強固で柔軟な新しい何かが構築されていきます。
西洋音楽は、イメージを記号化し、その記号を扱ってイメージを再構築するという性質を持っています。
例えば、「桜」にまつわるイメージがあり、それを音楽にするために一旦コードとメロディを作って記号化します。
それらの記号から「桜」のイメージをより具現化してリスナーに発信できるよう、演奏やアレンジ、サウンドを練ります。
既存の「桜」という曲を演奏する場合は、記号が既に存在しており、まずはその記号を覚え、そこから記号に込められたイメージを掘り起こすか、新たな解釈を与えてリスナーに提示します。
しかし、音楽の理解が記号に留まっている人は、記号の奥にあるイメージを掘り起こしたり、再構築するということができず、ただ記号のみを再現するだけに留まります。
だから何をやっても<上手に弾けている>というレベルで停滞してしまいます。
作曲なら<成立はしている>程度に留まります。
それらは全て、別次元から音楽を見るという能力の欠如に由来します。
音楽だけを真面目に突き詰めていけばいくほどこうした状態になりやすいというのは、笑えない皮肉です。
だいたい何でも弾ける、理解できる、活動もできる、でも何をやってもそこそこにしかならない……。
こうしたレベルを突破したかったら、音楽以外の何かを真剣にやるのが一番です。
スポーツ、ゲーム、読書、武道、レジャー、何をやっても構いません。
音楽同等に打ち込めば必ずそこから音楽が見えてきます。
特にプロを目指している人は、音楽と同等かそれ以上に打ち込める何かを、絶対にひとつ持っておくべきだと僕は考えます。
でなければ、気がついたらただ上手いだけの人になっていて途方に暮れる未来が待っているかもしれません。