八幡謙介ギター教室in横浜講師のブログ

ギター講師八幡謙介がギターや音楽について綴るブログ。

「実力を評価してほしい」と嘆く人が理解しておくべきこと


八幡謙介ギター教室in横浜

アーティストはしばしば「実力を評価してほしい」という願い(ボヤキ?)を口にします。

そこには

 

・自分(達)は実力がある

・でも正当に評価されていない

・一方で(自分達よりも)実力のない者が評価されている

・実力が評価される世の中であるべきだ

 

という文脈が存在します。

言ってることはまあ正論といえば正論ですし分からんでもないですが、実はそこに矛盾や無意識の侮蔑があることを認識している人は意外と少ないのではないでしょうか?

「実力が評価されていない」に潜む侮蔑

「実力を評価してほしい」という願望は、「実力があるのに評価されていない」という実感から生まれます。

「実力があるのに評価されていない」という実感は、自動的に、自分達が対象とする人や社会が「実力を評価できない」と決めつけていることになります。

なぜなら、対象が「実力を評価できる」人たちだとすると、その人たちに評価されない自分(達)は「実力がない」ということになるからです。

ですので、「実力があるのに評価されていない」を正当化するためには、自動的に「自分達を評価する人・社会は実力を評価できない」と決めつけることになります。

 

これを音楽で考えてみましょう。

作曲家のA氏がいます。

彼はある程度活動しているものの、楽曲は全く注目されず、UPした動画も伸びません。

仕事は友人経由でポツポツあるぐらいとしましょう。

仲間たちは曲を褒めてくれるし、客観的に見ても自分の曲が今売れている曲より劣っているとは思えません。

一方、どう考えても自分より劣る作曲家B氏の作品が、本人のキャラクターの奇抜さや動画の質、SNS戦略などのおかげでバズったり、その結果メジャーアーティストに起用されたりしています。

A氏はこの現象に対し、「自分の実力が評価されていない」と考えます。

これはそのまま「音楽ファンは実力が評価できない人達だ」と断定していることになります。

音楽ファンが実力を評価できる人たちだとすると、自分が評価されないことが正当になってしまいます。

自分への低評価(無評価)を不当とするためには、まず音楽ファンの認識力に疑いをかけておく必要があります。

「音楽ファンは実力で音楽を判断できないんだ、だから自分が評価されないだけだ!」と。

この時点でドキっとした人はまだ健全です。

 

では次に、ここにある矛盾をあぶり出してみましょう。

 

あなたは誰から評価してほしいの?

A氏は自分への評価(低評価、無評価)が不当であると考えます。

そしてそれは、音楽ファンが実力を評価できていないからだと無意識的に捉えます。

ではこのA氏、いったい誰から評価されたいのでしょう?

それは、自分の実力を評価できていない音楽ファンからです。

ここに矛盾が存在することがおわかりでしょうか?

A氏は音楽ファンが音楽そのものやミュージシャンの実力を評価できていない(だから自分が評価されない)と嘆きながら、同時にその音楽ファンから評価を得たいと切に願っているのです。

だから彼は創作をし続けます。

評価されたら掌を返す

ではそんなA氏が新しく出した曲がバズり、それがきっかけで売れたとしたらどうでしょう?

おそらくA氏は『やっと自分の実力が評価された』と安心し、この”売れる”という現象に何の疑いも挟まないはずです。

しかし、つい最近までA氏は「音楽ファンは実力が判断できない人達」と断定していたので、この論理からするとA氏は「実力が判断できない人達」から評価された、つまり「実力とは関係ないところで売れた」となるはずです。

ではA氏は『俺は実力に関係なく売れてしまった…』と嘆くのでしょうか?

そんなことはありません。

ついこないだまで音楽ファンは実力を判断できないと恨み、見下していたことをコロっと忘れて、彼らからの評価を正当化し、喜んで受け入れることでしょう。

この掌返しはいったい何なんでしょう?

「実力を評価してほしい」はダダをこねているだけ

結局A氏のように、売れないうちは「実力が評価されていない」=「音楽ファンは実力で音楽を評価できない」と嘆いて対象を暗に見下し、いざ自分が売れたら同じ対象に「実力を評価してくれた」と感謝し、その評価をすんなり受け入れるという人は、ダダをこねているだけです。

そもそも音楽ファンはA氏を評価する前も評価した後も変わっていません。

A氏が勝手に認識を180度転換しただけです。

そこには「自分を評価するかどうか」というわがままで独善的な価値観しかありません。

音楽ファンの大半は実力を判断できない、が…

ではそもそも、音楽ファンはアーティストの実力を公正に判断できるのでしょうか?

あえて答えを言うとNOです。

音楽ファンの8割から9割はアーティストの実力や楽曲の本当の良し悪しは判断できません(ちなみにミュージシャンでも歴20年以下なら本当の意味で実力や音楽の良し悪しなんて判断できません)。

ではなぜ、楽器も弾けない、音楽の知識も全然ないような人がある曲を「いい」とし、他のある曲には反応しないのか?

これ自体は音楽の謎、ひいては芸術の最大の謎ですが、今回の主題に絡めて一つ言えることがあります。

それは、A氏が売れる前の曲からは、リスナーが卑屈さや見下した印象を無意識的に感じ取っていたという仮説です。

「どうせ俺なんて」とか「どうせお前ら正当に評価しねーんだろ?」という意識は確実に作品に乗り移ります。

A氏やその他多くの評価されていないアーティストの作品にそれがあり、A氏よりも技術が劣るB氏の作品にはそれがないとしたら、リスナーが無意識のうちにB氏の作品に集まり、高評価を下しても不思議ではありません。

そして、長年音楽に携わってきて分かったことは、音楽経験0の音楽ファン、ひいては音楽ファンですらない人には、そうした音楽の奥にある意識を汲み取る力が備わっているということです。

音楽をちょっとでもかじるとそうした能力は一気に薄れ、消えてしまいます。

改めて「実力」って何だ?

あらためて、「実力」って何なんでしょう?

演奏や歌唱能力?

ライブでのパフォーマンス?

楽曲の質?

サウンド?

グルーヴ?

……確かにそれらも「実力」です。

同時に、「なんか卑屈さがない」とか「心から音楽を楽しんでそう」「とにかく一生懸命パフォーマンスしてる」といった印象を与えられることも「実力」です。

上記のA氏の楽曲が、質の良いメロディとアレンジを高い演奏力で表現しているけどなんか卑屈さがあり、上から目線な印象がするとします。

一方でB氏の楽曲はメロディもアレンジもなんかそこそこで、演奏力も高くないけどとても一生懸命で情熱に溢れ、聴いている自分達に寄り添ってくれるている印象だとしましょう。

音楽技術としての実力はA氏が上でしょう。

でも音楽ファンを虜にする実力はB氏の方が上と言えるかもしれません。

つまり、「実力」という概念は実体がないということです。

音楽的実力はリスナー軽視につながる

「実力で評価されたい」とか「実力をつけてプロになる」と考えている人は、このことをよくよく理解する必要があります。

「実力」=演奏・歌唱技術、作曲やアレンジ技術のみだと考えている人は危険です。

「このアーティストはなんか応援したくなる」という気持ちにさせるのも「実力」です。

「このアーティストのライブを観るとなんか幸せな気持ちになる」というのも「実力」です。

それと演奏や歌唱技術、作曲やアレンジ技法が無関係だとは言いませんが、あんまり関係ないといえば関係ないものだったりもします。

また、既に述べたように(一般的な)実力重視は音楽ファンへの軽視・蔑視につながります。

心の底にあるそうした感情を汲み取られて敬遠されるということも十分あるので、「実力」というものを最上位に置くのは僕は危険だと考えます。