どんなレベルであろうと、アーティストは「与える」存在です。
娯楽や、暇つぶし、美、陶酔、夢、問題提起などなど。
何らかの価値を受け手に与え、そこから報酬や承認が生まれます。
しかし、冷静に考えれば「与える」ってちょっと偉そうですよね。
綿矢りささんの「夢を与える」という小説には、まさしくこの「与える」という言葉への疑問が主題として折り込まれており、主人公はこの言葉に葛藤します。
僕自身、この「与える」という言い方には前々から疑問を持っていたので、この小説を読んだときは共感しましたが、今ではやはり「与える」が正しいと感じます。
アーティスト(特にアマチュア)の中には、与える前に求めている人たちがいます。
自分を認めて欲しい、ファンになって欲しい、応援してほしいという気持ちや言葉が作品より前に出てしまっている人です。
エレキギターで言うと、テクニックを披露して承認を求めるタイプです。
こういったものを目にすると、不快感を感じます。
なぜかというと、こちらが楽しむ余地もなく相手への承認を求められているからです。
誰だか知らない人に「こんなに上手になりました、だから僕のこと認めてね」と言われても、親類縁者でないかぎり何の感情も浮かばないでしょう。
そうではなく、受け手側としてはまず楽しめるかどうかがあり、楽しめたら何らかのリアクションを起こそうとします。
しかし、こちらが楽しいかどうかを無視して、「自分を認めろ、承認しろ」と一方的に言われたら不快に感じるのは当然でしょう。
ですから、アーティストは受け手の承認を度外視して作品を発表する必要があります。
そこに必要なのは傲慢さです。
「この作品は絶対にいいものである」「絶対に人を楽しませる自信がある」という、ある種の傲慢さがないと、中途半端に謙虚になってしまい、「僕頑張ったでしょ?だから認めてね」といった余計な承認願望が作品の前に出てしまうのでしょう。
そうならないための「与える」というメンタリティです。
このように、「与える」という王様のような気持ちで作品を発表することで、認めて欲しい、褒めて欲しいという承認願望が前面に出てしまうことを抑える効果があると僕は感じます。
「与える」人間はある種の絶対者であり、既に承認されている人間ですからね。
アーティストはそうやって、娯楽や美や夢を「与える」人種であり、有名無名にかかわらずそうあるべきです。
もちろん、「与え」た後に批判は無理解、失敗などがあればそれは謙虚に受け止めるべきです。