表現とは何かを考えてみましょう。
表現は、必ず他者に向けて行われる行為です。
では、他者に向けて何かを行えばそれが全て表現になるのかというと、答えはNOです。
重要なのは、演者である自分が行うことではなく、他者がその表現をどう受け止めるか、です。
簡単な例でかんがえてみましょう。
例えば、『明るく見られたい』という欲求があるとします。
その欲求を満たすため、他者に向かって何かを実践することが表現です。
あれこれと考えた末、常に笑顔でいることを実践してみることにしました。
一般的に、「私」が「笑顔でいる」ことを実践している=「表現している」となりますが、これではまだ不十分です。
重要なのは、単に「笑顔でいること」ではなく、本来の目的である「明るく見られる」ことが成功したかどうかです。
笑顔でいることで、他人から『明るいね』とか『いつも楽しそうだね』と言われたり、自然と人が集まってくるようになったりすれば、表現は成功です。
逆に、いつも笑顔を実践しているのに、なぜか人が集まってこなかったり、陰で『あいつへらへらして気持ち悪いよな』とか、『作り笑いがうさんくさい』などと陰口を言われてしまっていたら、表現は失敗です。
このように、表現は、他者に自分の意図する感情をもたらすことが目的であり、自分が表現という行為をただ行うことではないのです。
音楽で考えてみましょう。
例えば、「熱いインタープレイ(相互に働きかけるアドリブ)をお届けします」、といったライブ があるとします。
多くのジャズライブはこういった謳い文句を掲げています。
では、演者たちがそれぞれの思う「熱いインタープレイ」を行えば、その時点で表現として成立するのかというと、もちろんNOです。
重要なのは、観客が熱くなること、そして、観客がプレイヤー同士の相互の働きかけ(インタープレイ)を感じられることです。
残念ながら、ほとんどのジャズライブでは僕はそれを感じません。
確かに、記号と記号は絡み合っていますが、それを演奏している人間を見ていると、お互いに無視しあっているように見えたり、譜面に没頭していたり、ただやる気なさそうだったり、誰に向かって演奏しているのか分からなかったり……なにより、観ていて全く熱くなってきません。
これはつまり、表現の失敗です。
しかし、多くのミュージシャン(等にジャズ)は、自分が行うことが表現だと勘違いしており、その自分の表現を感得できない観客に非があると考えてしまいます。
だからどこまでも引き籠もってしまうのでしょう。
その結果、人が集まらなくなり、そのジャンル自体が衰退してしまう、ということはジャズを見ていればよくわかります(「ジャズに人が集まらない理由」参照)。
表現者にとって、最も重要なのは、客観的視点です。
ある表現をしたとき、他者はどう感じるのか?
暖かい気持ちになれる曲を書いたとしたら、他人はそれを聴いて本当に暖かい気持ちになるのか?
元気になれる演奏をしたら、他人は本当に元気になるのか?
クレッシェンドを弾いたとき、観客はそれをクレッシェンドだと認識するのか?
レイドバックで弾いたとき、観客はそれをレイドバックしたグルーヴだと感じるのか?
そういったこと疑わず、ただただ「自分」が何かをする類いの行為は、表現とはいえません。