音楽における価値は様々で、「上手い」はその中で決して上位にあるわけではなく、時としてそれが音楽的価値を貶めてしまうこともあります。
ただ、それでもやはり「上手い」にはある種の説得力があり、その説得力をもって技術論の好きなプレイヤー、愛好家が幅を効かせているというのが現状でしょう。
あまり上手くないけど味のあるバンドやアーティストの魅力を力説しても、「でも下手じゃん」と技術の不備を具体的に指摘されると、「ぐぬぬ」とならざるをえません。
なぜなのでしょうか?
まず「上手い」を定義しましょう。
これは簡単です。
上手い演奏とは、
・物理的正確性
・高度な再現性
の二つを持ち合わせた演奏のことです。
いつでもどこでも、高度な演奏を正確に再現できる人が「上手い」人です。
ここには、タイムや音程の正確さといった、物理的に明確な基準が存在します。
その基準に照らし合わせて演奏を判断できるようになれば、誰でも「上手い」をジャッジできるようになります。
一方、上手くはないけど凄くいいという演奏は、基準が主観的で曖昧です。
「エネルギーがある」とか「渋い」、昔の表現でいう「イナタイ」とか、あるいは「味がある」とか、どうも客観性に欠けた表現しかできません。
客観的基準のある「上手い」と、主観に頼らざるをえないそれ以外の価値感では、どうしたって「上手い」の方が明快で力強い意見とならざるをえないのです。
とはいえ、「上手い」以外の音楽のよさは、一般の方や、熟練のミュージシャンには理解できています。
暗黙の了解というやつでしょうか。
問題は、ちょっとかじっている人たちです。
彼らは、プロほどつきつめてもおらず、また、楽器未経験の方たちほど新鮮な聴き方もできません。
あえてはっきり言えば、中途半端な技術論で音楽を判断してしまいがちなのです。
その結果、「上手い」が音楽を判断する基準の上位に来てしまうのでしょう。
そして、ある特定のジャンルにおいては、こうした<そこそこ弾ける>層が圧倒的に多いため、彼らの声が最も強くなり、そのジャンルの価値基準が「上手い」に支配されてしまう、という現象がしばしば起こります。
その最たるものがジャズギターでしょう。
・「上手い」は物理的概念を伴うので、客観的に判断しやすい。
・ジャンルによっては「上手い」以外の判断基準を持たない層が最大のリスナーとなっている場合がある。
こうして、『このアーティスト、上手いだけで別にいいとは思わないのになあ……』と思っていても、声に出し辛い空気が形成されます。
「上手い」以外の価値基準を信じるミュージシャンや音楽ファンがこういった空気にどう対応するべきか、まだはっきりとした答えが出ていないように僕は思います。
個人的には「上手い」という価値基準はとっくに捨てましたが、やっぱりまだまだ「上手い」と言われたがっている、あるいは「下手」だと言われたくないミュージシャンが多いのではないかと思います。