八幡謙介ギター教室in横浜講師のブログ

ギター講師八幡謙介がギターや音楽について綴るブログ。

ミセスグリーンアップルの「コロンブス」炎上騒動から考える”表現”とは?


八幡謙介ギター教室in横浜

ミセスグリーンアップルの新曲「コロンブス」が大炎上しています。

楽曲はこちら(オリジナルMVは配信停止)。

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なぜこれが炎上したのかというと、

 

・コロンブスは奴隷貿易や虐殺などで評価を見直す動きがある

・MVの中でメンバーは中世ヨーロッパ人風のコスプレ

・類人猿に文明を教えるようなシーン

・類人猿が人力車を引き使役させられるようなシーン

 

これらが合わさって、コロンブスが新大陸の先住民を獣扱いして奴隷にしたことを面白おかしく表現しているのではないかと受け取られ、大炎上しました。

個人的にはこちらの動画が一番分かりやすかったです。

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表現してる、してない?

さて、ここからが本題。

アーティストは「そんなつもりはなかった」と謝罪し、ファンは「ミセスは虐殺や奴隷貿易を表現していない」と擁護しています。

また、楽曲自体も当然ながら奴隷貿易肯定や原住民差別の曲ではありません。

そして一部ファンからは「アンチが面白がって騒いでいるだけ」「曲解しすぎ」「ちゃんと曲を聴こうよ」などという意見も上がっています。

つまり、ある人は「これはダメだ」「絶対にやっちゃいけない表現」と顔をしかめ、ある人は「全然OK」「何がダメなの?」と肯定している状態です。

ではミセスは何を表現しているのか?

そもそも、じゃあ”表現”って何なのか?

この炎上騒動からそういった主題が浮かび上がってきます。

僕は、ミュージシャンやアーティスト志望の方がこの騒動から改めて”表現”について学べることが多々あると感じたので、真面目に取り上げてみたいと思いました。

表現とは?
では表現とは何か?
まず言えることは、アーティストの意図は実はそこまで関係ないということです。
一般の方は驚かれるかもしれませんが、創作者であるアーティストは作品の表現にそこまで関わることができません。
仮に100%自分の手で創作したものでも同じです。
なぜなら、受け手は100%アーティストの意図を汲み取ることはしないし、できないからです。
また、受け手の理解した”表現”がアーティストの意図と違っており、仮にそれをアーティストが「違うよ、こうだよ」と指摘したところで、その人の理解・解釈を訂正できるかどうかも定かではありません。
アーティストは作品で表現しますが、表現とはアーティストのものではないのです。
作品は生きている

仮に今回のように、アーティストが意図していない、そうならないように気をつけたつもりの内容が”表現”として露呈してしまったとき、「意図していなかった」「そういうつもりではなかった」とアナウンスすればその”表現”をキャンセルできるのかというと、実際問題無理です。

また、アーティストの意図を知った上で再度MVを視聴しても(ネットで見つけられます:UPはしません)、やはりそこには「先住民のサル共に高貴な文明を教えてやるエセ西洋人の日本人」がいます。

つまり、作品がそう言っているのです。

そうして、作品は生き、独自の主張をします。

これは自作がある程度売れたことのあるアーティストなら必ず体験しているはずです。

本やCDなら2~3000程度、動画なら数万PVぐらいでこの現象は起こります。

最初は「なんで?」「そんなこと表現してないのに」「え、これってそういう作品なんだ(自分の作品なのに)」と戸惑い、やがて「そうか、作品は生きているのか…」と理解しはじめます。

その神秘を経て、アーティストは一人前に成長していきます。

多数決、時代性

では、ある人はある作品の表現を問題ないと言い、ある人はアウトだと言う。

最終的にはどう決着がつくのか?

恐らくそれは、多数決と時代性でしょう。

今回のミセスの楽曲については、まず20年前なら問題なかったでしょうね。

また、初動でインフルエンサーたちが「これいいよ」「ちょっと危ない表現もあるけど問題ないでしょ」といった動画を上げていれば問題ないことになっていたでしょう(その後どうなるかは分かりませんが)。

で、何が言いたいかというと、作品は作者の意図という絶対的基準を持っているのではなく、作者ですらコントロール不可能な生命を持っており、その生命自体も絶対的な基準を持っておらず、多数決や時代性で変化していくということです。

”表現”の先輩としての純文学

この件について考えてみたとき、僕は改めて純文学という表現形式の先進性を思わずにはいられませんでした。

というのも、純文学においてこうした問題(作品と作者、作者の意図と受け手の認識、時代性云々)は、とうの昔に解決済みだからです。

純文学において「作品は生きている」、「作品は作者のものであり読者のもの」という認識は当たり前で、誤読はむしろ作品世界を広げ、新たな価値を生むある種の二次創作行為として作者によって推奨されているからです。

作品に正解があり、作者の意図通りに読むことを求める純文学作家は一人もいないでしょう。

つまり、この「コロンブス」炎上案件のような”表現”の問題は、とっくに解決済みで、それを織り込んだ上で作家たちは創作しているのです。

純文学はしばしば古くさいとか終わったと言われていますが、そうではなく、先に進みすぎていて大衆が追いつけていないだけです。

大衆芸術であるポップミュージックは、まだまだ「作者はこう表現している」「いや、してない」論争に終始していますからね…。

余談ですが、いきものがかりの歌詞も純文学なら許されていないというのが僕の持論です。

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”表現”とは博打である

結局、作者がどんな意図を込めようが、どれだけコンプラに配慮しようが、作品が生きている以上表現は博打に他なりません。

アーティストにギャンブラーが多いのは、どちらも一攫千金を狙っているからではなく、自分が張った未来(作品、賭けの対象)がどう出るか分からないという点で共通しているのでしょう。

そんなあやふやな世界で勝負したい人は、どうぞこちらへ。

自分が細心を注意を払って世に出したものが一切コントロールできないという恐怖に耐えられない方は芸術はやめといた方がいいでしょう。

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