八幡謙介ギター教室in横浜講師のブログ

ギター講師八幡謙介がギターや音楽について綴るブログ。

バンドクラッシャーの見分け方 2 嫉妬、いじり、そしてクラッシュへ…


八幡謙介ギター教室in横浜

さて、バンド内の空気を支配し、先輩にも気にいられ、すっかりバンドの最重要人物として納まったクラッシャー。

無事彼の欲望が満たされめでたしめでたし……とはまだいきません。

どれだけヤンキー仕込みの政治テクニックを駆使しても、ひとつだけどうしてもままならないものがありました。

それは音楽です。

 

バンドというものはそもそもミュージシャンの集まり、そこで最も重要なのは音楽的能力であり、それが高い人間が必然的に音楽面を、ひいてはバンドそのものを仕切っていくことになります。

自分で言うのもなんですが、バンド内で僕は圧倒的な音楽的能力を持ち合わせていました(まあ、田舎だったからですがw)。

全ての作曲、アレンジは僕が行い、各楽器のフレーズさえも僕が全て指示していました。

ちなみに、この頃はまだネットすらなく、当然DTMも存在せず、楽器が弾けない人間が作曲やアレンジをするなど不可能な時代でした。

そして僕がメンバーに指示している間、楽器が弾けないクラッシャーは黙って見ているしかなかったのです。

そう、彼はまたしても一番になれなかったのです。

もちろん、僕も含め他のメンバーは全くそんなこと気にしていませんでしたが、クラッシャーの中では沸々と何かが煮えたぎっていたようです。

 

 

恐らくクラッシャーは相当な危機感を覚えたに違いありません。

彼なりに努力し、やっと一番になれる場所が見つかったのに、ここでもまたその座を蹴落とされてしまうのか……、そう感じたであろうクラッシャーは、いつからか音楽的な監督(?)をする立場である僕を蹴落とそうと画策し、動き始めました。

クラッシャーは僕の来ている服、持ち物、言葉遣いや動作など、ありとあらゆることをいじって笑いものにしだしたのです。

それも、一対一では何も言ってこない(というか、わりと従順)のに、皆の前、特にバンド外の人間、とりわけ女の子がいる前で執拗にいじり倒してくるのです。

もしそれだけだったら僕はさっさとバンドをやめていたでしょう。

しかしそこはヤンキーあがりのクラッシャー、普段はいじり倒してくるくせに、僕と一対一になると妙に優しくなり、「お前みたいなすごいギタリストがいんかったら、このバンド絶対成立せーへんからな…」と、どこかのヤンキー漫画で覚えたような台詞を真面目なトーンで言ってくれるのです。

なんたるアメとムチ!

僕はその言葉を真に受け、DV夫の家にすごすごと帰っていく従順な妻のように、『またいじられんのか~』と溜息をつきながらも、ずるずるとこのバンドを続けていたのでした。

 

 

僕はクラッシャーの画策により、音楽の全責任を負う立場でありながらバンド内では最下層民という、奇妙なポジションにまんまと蹴落とされてしまいました。

 

ついに、クラッシャーは天敵とも言える僕を、完全な「いじられキャラ」として貶めることに成功しました。

それでも音楽が好きでバンドは続けていましたが、限界は近づいていました。

それは僕だけではありません、他のオリジナルメンバーも、そしてクラッシャーさえも確実に何かが変わっていったのです。

恐らくクラッシャー自身は、最後の敵である僕を下層民に落とすことに成功し、彼の中での目的を果たし終えたのでしょう。

ある時期から彼は明らかにバンドに対してやる気をなくしていきました。

また、以前からちょくちょく見られたいい加減な言動も、だんだん目に余るようになってきました。

この辺の時期は、僕自身精神的にきつかったこともあってよく覚えていませんが、他のオリジナルメンバーと、「あいつそろそろ無理やな」みたいな話し合いをよくしていた気がします。

いつまで経っても音楽的にレベルアップしないクラッシャーの正体を皆が薄々感じ始めてもいたのでしょう。

さらに年齢的にも十代後半で、そろそろ音楽は卒業かな……ということを誰もが考える時期でもありました。

 

 

クラッシャーにも彼の取り巻きにもいい加減うんざりしてきた頃、アメリカ留学の話がおこりました。

ちょうどバンドが面白くなかったこともあり、僕はすぐにその話に乗り、入学手続きを進めていきました。

メンバーにも他の誰にも言わずに。

そして、ある区切りで僕はメンバーに留学のことは黙って、脱退だけを告げました。

>引き留める人は誰もいませんでした。

そのときのクラッシャーの勝ち誇ったようなニヤニヤ顔はいまだに鮮明に覚えています。

彼にとっては恐らく、最高の瞬間だったに違いありません。

 

 

こうして、僕のバンド時代はクラッシャーにさんざん蹂躙された後、辛く悲しい思いでだけを残して幕を閉じました。

まあ、本当はもっといろいろあるのですが、具体的に書けないことも沢山あるので分かりにくかったかもしれません。

結局、この時期のバンド関係者は僕にとって仲間と呼べる存在ではなく、20年近く経ってもやはりそうは思えません。

もちろん連絡など取っていないし、また会いたいとも思いません。

バンド活動をこんな風に終わらせないためにも、クラッシャーには十分気を付けるべきでしょう。

では、次回からいよいよクラッシャーの分析に入りたいと思います。

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バンドクラッシャーの見分け方3へ

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