日本人は一生懸命に対する神話を持っています。
何事も一生懸命やりさえすれば結果がついてくる、成功する、というあれです。
そうならない場合はまだ一生懸命さが足りない、命をかけていない、とまで考える人もいます。
はっきりいってこれは嘘です。
一般社会でもそうですし、こと芸術においては一生懸命と作品やパフォーマンスの出来、それに対する評価はほとんど何の関係もありません。
僕はそれを、小説を書いていてはっきりと体感しました。
こちらは僕の処女作です。
(発売日は2014年5月となっていますが、実際は2013年ぐらい)
生まれてはじめて書いた小説で、いいものを書こうと一生懸命努力しました。
結果、それなりの評価はいただいたのですが、同時に「前半の展開が重い」「キャラにテンプレ感がある」などなどの批判もいただきました。
それらはうすうす自分でも感じていたことなのですが、客観的に指摘されることではっきりと認識できるようになりました。
そして続編がこちら。
前作への批判を受けて、はっきりと書き方を変えました。
プロットは大きな柱をいくつか立てるだけ。
主要キャラ以外は先に作らず流れの中で必要ならその都度考えていく。
そのときそのときで面白いと思ったことを採用する。
だいたいこんな感じで、当時の僕の中では手抜きでいい加減な書き方です。
もちろん、これは戦略としてそうしたということです。
前作への批判から考えると、その方がどうやら面白くなりそうな気がしたからです。
とはいえ、執筆中はすごく不安でしたし、ある種の罪悪感はずっとありましたが、書き終わって出してみると意外にも前作より高評価を受けました。
音楽でも同様のことが多々あります。
例えば今レッスンでやっているROOM335という曲は一生懸命弾くとダサくなります。
手を抜いて適当に(といってもちゃんと弾くのですが)やるとちょうどいい雰囲気が出てくれます。
もちろん、一生懸命弾くといい演奏になる曲も沢山あります。
しかし、それが真理ではないということです。
この辺は年齢や経験を積めば分かってくることだと思いますが、いまいちピンと来ない人はまだ若いか経験が浅いかのどちらかでしょう。
余談ですが、こういったことを考えはじめた頃、実験として手を抜いたりしていたのですが、それを見たある知人に「お前はなんで一生懸命やらないんだ!」とキレられました。
そのときは今のように一生懸命が必ずしも結果を出さないとはっきりと自覚していなかったので、上手く説明できず、かといって反省の色も見せず、そんな僕の態度でさらに相手は逆上して一方的に縁を切られました。
その人は当時、自分も何かやりたいけど何がやりたいのかわからないとよく口にしていました。
おそらく、何かができる僕が手を抜いているのを表面的に捉えて、「やりたいことやってるんだから一生懸命やれよ!」とキレたのでしょう。
一生懸命はもちろん大事だし、それ自体は否定しませんが、それも結局はものごとの一側面にすぎないということはどこかで理解するべきでしょう。