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日本人男性がアイドルにハマる理由は川端康成「伊豆の踊子」に書いてある

日本のアイドルは既に社会現象を通り越して文化として成熟したといっても過言ではありません。

それらは今やサブカル系評論家のみならず、れっきとした社会学者、ジェンダー研究家までもが研究対象として取り上げるほどです。

僕もいちアイドル好きのミュージシャンとしてそうしたコラムや映像作品があればできるだけ目を通すのですが、アイドル文化、とりわけ世の男性たちがアイドルにハマる理由で、いまだにしっくりと来るものには出会えていません。

それは伝統的なロリコン説であったり、ジェンダー説(男性的妄想の具現化)、あるいはパンクロックの誕生と重ねた長引く不況や経済格差からの自然発生という説、音楽不況から生まれた新たなビジネスモデルに過ぎないという説、非リア充からの搾取というある種の陰謀説など多岐にわたるものですが、自分自身になぞらえても「それだ!」と首肯できる内容はまだお目にかかっていません。

 

では、日本人男性はいったいアイドルの何にハマっているのか…

そんなことを考えていたとき、ふと再読した川端康成「伊豆の踊子」に僕は答えを見つけたような気がしました。

伊豆の踊子 (新潮文庫)

伊豆の踊子 (新潮文庫)

 

「伊豆の踊子」はいうまでもなく日本文学の名作中の名作ですが、これ、どんな話か覚えている人いますか?

川端文学は日本文学の中でもとりわけもやっとしていて何が言いたいのかよくわからないという人が多いと思います。

僕もずっとその一人でした。

しかし、アイドルとオタクという視点から本作を再読したとき、まるで体に電気が走ったような衝撃があり、アイドルについてのどんな鋭い論考よりも「これか!」と心から納得できた気がしました。

 

では一度「伊豆の踊子」についておさらいしてみましょう。

「伊豆の踊子」は、作者川端の分身である”私”が一人旅をし、道中出会った踊り子に惹かれ、プラトニックな交流をするという物語です。

川端らしくプロットはぼんやりと淡く、心理描写も切り詰めてあるので、一読してなんの話で何がいいたかったのかよくわかりません。

とりあえず重要なところだけまとめてみましょう。

 

”私”

川端の分身。孤児。「孤児根性」を持っていることを内省。

 

踊り子

旅芸人一座の娘。大人の女性だと思っていたら子供だった。処女。

 

ストーリー

“私”は自分の性質が孤児根性で歪んでいることに反省を重ね、その憂鬱に耐えきれず旅に出る。

道中出会った踊り子が大人だと思っていたら子供(処女)だったことに安心し、その無垢な少女との交流を経て『どんなに親切にされても、それを大変自然に受け入れられるような美しい空虚な気持ち』(原文引用)になって元の生活に帰っていく。

 

ざっくり言うとこれだけです。

”私”は確かに踊り子に恋をしていますが、恋にまつわる出来事や事件(告白、キス、肉体関係、裏切り、駆け引き)は全くといっていいほど起こりません。

せいぜい余計な想像から生まれた嫉妬や猜疑心ぐらいでしょうか(それもすぐに晴れます)。

それ以外は、近くに来ていい匂いがしたとかそんなレベルです。

そして話はハッピーエンドかどうかすらわからず、もやっとしたところで終わります。

この一連の流れやそれぞれの役割、心情などが日本人男性とアイドルとの関係性を如実に表していると僕は考えます。

といってもこれだけではなんのことかわからないでしょうから、「伊豆の踊子」にもう少し現代的な解釈を加えてみましょう。

 

まず人物を現代に置き換えます。

踊り子=アイドル。

これは言うまでもないでしょう。

ポイントは”私”とオタク(アイドルファン)の共通点です。

「伊豆の踊子」の”私”は孤児です。

彼が川端の分身だとすれば、2、3歳で父母を、7歳で祖母、15歳までに姉と祖父を亡くしたことになります。

これをそのまま受け止めるのではなく、孤児=<非リア充>という文脈で捉えてみると<アイドルと非リア充の心の交流>という構図が出来上がり、途端に現代とのつながりが見えてきます。

 

さらにこの人物像に従って現代的にストーリーを捉えなおしてみましょう。

「旅」は日常と異なる場所という意味でネットに置き換えることができるはずです。

 

“私”は自分の性質が非リア充根性で歪んでいることに反省を重ね、その憂鬱に耐えきれずネットに明け暮れる。

ネット上で出会ったアイドルが子供(処女)だったことに安心し、その無垢な少女との交流を経て『どんなに親切にされても、それを大変自然に受け入れられるような美しい空虚な気持ち』になってリアルでの生活に帰っていく。

 

どうでしょう?

アイドル好きの男性で「え、俺じゃん?」と思ってしまった人は多いはずです。

ただ問題は、『どんなに親切にされても、それを大変自然に受け入れられるように美しい空虚な気持ち』です。

これについて考察してみましょう。

 

アイドルオタクはの中には「ガチ恋」と呼ばれる、本気でアイドルと付き合える、結婚できると思っている人たちもいます。

また、そこまでいかなくても「もしかしたら」ぐらいのことは誰でも妄想するでしょう。

といっても彼らも馬鹿ではありません。

心のどこかではそれが空虚な妄想であると分かっています。

しかし、それは『美しい空虚』です。

男性は概ね、この『美しい空虚な気持ち』を持たなければ厳しい現実に耐えることができないのです。

音楽、バイクや車、ゲームやアニメ、フィギュア、そしてアイドル。

男性はそれらに<美>と<空虚>(妄想)を必ず求めます。

<美>と<実用>や<美>と<生活>ではありません。

必ず<美>と<空虚>なのです。

自分はロックスターにはなれない、漫画家にはなれない、レーサーにはなれない、アイドルとは結婚できない……それは分かっている、分かっているけどちょっとだけ現実を忘れてその美しい妄想に浸りたい……。

それが男性の習性、あるいは日本人男性の習性なのです。

 

そして、『どんなに親切にされても、それを大変自然に受け入れられる』とは、精神的余裕のことだと僕は思います。

親切を受け入れるには心に余裕が必要です。

余裕のない人(孤児=非リア充)は疑心暗鬼になり、親切のひとつふたつでもう逃げてしまうでしょう。

『どんなに親切にされても、それを大変自然に受け入れられる』気持ちがあれば、同時にどんな困難にも立ち向かえます。

つまり、孤児(非リア充)という現実ばかり見てきた”私”が踊り子(アイドル)と出会い、美しい妄想に浸って心に余裕が出てき、また現実を生きる力が湧いてきたということです。

川端が最も言いたかったことがこれだとすれば、もうその先にある物語は不要となります。

ですから「伊豆の踊子」では上記の文章から数行で終わっています(エピローグなどは一切なし)。

 

ポイントは、”私”が踊り子(アイドル)への恋心を成就させようと苦心し、ついに彼女を手に入れ人生を謳歌するのではなく、自分の欲望を一切満たそうとせず、それがそのまま実人生に力強い影響を与えるというところです。

女性には信じてもらえないかもしれませんが、男性が本当に『美しい空虚な気持ち』になっているとき、そこには性欲や支配欲といったものはありません。

クソだと思っていた自分の人生がにわかにほんの少しだけ色づき、どこからともなく力が湧いてくる…世間的に(あるいは女性から)くだらないと言われる趣味に没頭していると、ふとそうした瞬間が男性には訪れるものなのです。

そして、日本人男性を最も『美しい空虚な気持ち』にさせるのが無垢な少女なのでしょう(そこに、自分は何ら努力や研鑽を必要とせず比較的低い対価で『美しい空虚な気持ち』にさせてもらいたがるという男性的なずるさがないとはいいません)。

少女がそうした役割を持つことの是非はさておき、こう捉えることで日本人男性がアイドルにハマる理由がすっきりと理解できる気がします。

川端康成は、日本人が持つ少女への想い、そして少女が日本人男性にもたらす効果をいち早く掘り当て、それを文学作品へと昇華させた、おそらく日本初のアイドル評論家であり予言者だと言えるでしょう。

 

川端先生、ただのロリコン倒錯ひねくれジジイだと思ってすまんかった。

 

以下は憶測ですが、アイドルを目指しアイドルとなる少女たちは、そういった自分たちの役割を本能的に知っているように思えます。

そうして彼女たちは日夜日本人男性を『美しい空虚な気持ち』にさせようと歌い、踊るのです。

伊豆の踊子 (新潮文庫)

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