8月17日、お笑いコンビ雨上がり決死隊の解散報道があり、同日、特別動画が公開されました。
雨上がりは世代的にずっと見てきたので、『解散かー…』となかなか感慨深いものがありました。
それはそうと、僕はこの動画を観て、驚いたことがひとつあります。
それは、久々に雨上がりの二人が並んで前説をやっていたんですが、どう見てもコンビに見えなかったことです。
横浜ギター教室のレッスンで、デュオがデュオに見えるかどうかという話を良くします。
本来はアンサンブルの話なんですが、二人に絞る方が分かりやすいので、デュオを例にすることが多いです。
例えば歌と伴奏、この二人が本当に一緒にやってるように見えるのか、それとも音楽としては成立しているけどそれぞれ別の作業を同じ場所でしているだけに見えるのか?
歌と楽器がちゃんと混ざり合っているのか?
それとも、タイムやコードが合っているだけなのか?
かなり高度な感覚を要しますが、長年音楽をやっていると分かってきます。
もちろん音楽だけではなく、ダンスも、演劇も、そして漫才も一緒でしょう。
さて、今回解散となった雨上がりのお二人、僕にはもはやデュオ(コンビ)には見えませんでした。
別々の事をそれぞれやっているお笑い芸人が二人並んでしゃべっているように見えました。
それは、間にパーティションが入っているからでもなく、宮迫さんがYOUTUBEをやって、蛍原さんがTVで頑張って……という情報を知っているからでもなく、解散するという事実があるからでもありません。
フラットな状態でお二人の姿を見たとき、『あれ…何やこれ??』と真っ先に違和感を感じたのです。
まとっている空気の違いと言うのが一番しっくり来るかもしれません。
二人で一つの空気になっているのではなく、それぞれがそれぞれの空気を持っているように僕には見えました。
『あ、この二人、もう完全にコンビじゃないんや……』
空気がそれを如実に現していて、とても寂しくなり、最後まで観られませんでした。
そういったことから、改めてデュオをデュオたらしめているのは、契約とか組んでいるという事実、あるいは技術や年数ではないということがわかります。
まあ単純な表現でいうと、お互いの気持ちなんでしょう。
お互いの気持ちが合い、それが混ざって空気として二人を包んでいるとき、デュオに見えるようです。
長年かけてそれを形成していくケースもあれば、一発音を出した瞬間から奇跡的にそうなるケースもあるようです。
ただ、それは人間同士のことなので今回の雨上がりさんのように30年もやってきて最終的に上手くいかず、もはや横に並んでもコンビにすら見えないこともあります。
また、音楽でいうと、いつもデュオではなく、三人四人と増えていくので、余計に難しくなります。
その難しさを誤魔化すためにミュージシャンは記号やタイムに頼ります。
いくらお互いのタイムがぴったり合っていても、技術レベルが同じでも、気が合っていても、長年一緒にやっていても、夫婦でも、それがデュオに見えていないのなら意味がありません。
じゃあどうやったらデュオに見えるのか、コンビに見えるのか、バンドに見えるのか?
ここが”芸”の領域なんでしょう。
漫才師は年月や舞台の数でクリアしようとするように見えます。
音楽にはあまりその概念がありません。
クラシックは技術で突破しようとしている感じがしますが。
どうやったらデュオがデュオに見えるのか、バンドがバンドに見えるのか、ミュージシャンは一度考えてみるべきだと僕は思います。