何かを続けていると、やがて主観と客観の問題に突き当たります。
自分はこれがいいと思っているのに、人からはダサいと言われた、微妙な顔で「う、うん…」と明らかにリアクションに困られた。
そうして、自分の”いい”が他人の”いい”とは違うらしいという問題に直面します。
これは、客観の発見といってもいいでしょう。
どうやら自分が思っているように世界はできてないし、思った通りに世界は動かないらしいということがぼんやりと見えてきます。
そこから認識をアップデートするために、外に学びを求めます。
主観だけでは通用しないと分かったので、客観的な意見や方法に触れようとします。
いろんなところで学び、自分にないものを吸収していくと、世界が広がっていきますが、そこで今度は新たな問題に直面します。
学びの場や機会を増やしていけばいくほど、様々な人や情報に触れることができます。
そうすると、客観的意見や方法論が世に乱立していることがわかります。
Aさんはこうした方がいいと言ってるけど、Bさんはそれを真っ向から否定し、真逆のことを推奨している。
また、Cさんは自分の好きなようにやればいいと言う。
そうした様々な客観的意見を判定し、「これ」と決定するのは自分です。
ここで一周回ってまた主観に戻ってきました。
自分一人じゃ世界が狭すぎて成長できない、一方、外に何かを求めると世界が広すぎてどれを信じたらいいのか分からない……
だいたいこの辺で潰れる人が多い気がします。
主観は信用できない、しかし客観は多すぎて迷ってしまう、またその客観を選ぶのは結局主観になってしまう……
そこで身動きが取れなくなってしまうのは、答えを探しているからです。
そもそも、音楽でいうと、どうやったら楽器が上達するのか、良い曲が書けるようになるのか、ミックスでいい音を作れるのかに答えなんてありません。
独学で上達する人もいれば、教室に通って頭角を現す人もいます。
昔のようにボーヤ、鞄持ちなどをやる人もいるし、オンラインサロンなどで情報収集する人もいるでしょう。
また、それらのどれかで上達したとしても、それが本当に答えかどうかは誰にもわかりません。
独学でギターが弾けるようになり、プロデビューを果たしたが、独学が祟って数年で技術もセンスも頭打ちとなり廃業する人もいます。
一方、どこで誰に習っても大して上達せず、周りからは見下され嘲笑されていた人が10年後頭角を現してトッププレイヤーの仲間入りとなった事例もあります。
ではどうすればいいのか?
重要なのは主観か客観かという問題に答えを出すことではなく、主観と客観をぐるぐる巡っている状態をできるだけ長く続けることです。
自分の感覚を大事にする時期があったかと思えば、外に学んで自分を消していく時期を過ごしたり、そうかと思えばまた自分に立ち戻ってわがままに活動してみたり……。
そんなことをずっとやっていれば認識は深まっていきます。
と、そんなことは大昔の中国人はとっくに知っていたらしく、おなじみこちらの図に象徴されています。
これを見ると、陰と陽が両立しているのではなく、巡っているように見えますよね。
また、陰中陽、陽中陰があるという点も見逃せません。
今回の話でいうと、主観の中に客観が必要であり、客観の中にも主観が必要であるという点と呼応します。
ではそうした状態はどうやって形成されるのか、どこかで資格のように獲得できるのかというと、たぶんそうではなく何度も陰と陽を巡ることで徐々に上図のような形が形成されていくんだと思います。
陰中陽、陽中陰というとなんか呪文のようで、あるいは中二病みたいで恥ずかしいと思う人もいるかもしれませんが、分かりやすい実例はあります。
ダウンダウンの松ちゃんは、笑いを突き詰めた結果「笑わない」という真逆の概念に到達し、それがさらに笑いを昇華させ、彼自身の芸や哲学を深めるという域に到達しています。
笑う=陽
笑わない=陰
だとすれば、正に陽中陰、陰中陽の芸だといえます。
主観、客観、あらゆる場面、あらゆる人の「おもろい」を突き詰めた結果、そこに到達したのでしょう。
ここからややスピリチュアル系の話なりますが、ちょっとだけ我慢してください。
僕は近年神道の言霊学を独学で勉強していますが、上記のような陰と陽、主観と客観をぐるぐる巡ることを言霊学では「あめ」といいます。
「あめ」を漢字にすると「天」になりますが、これは後年の当て字なので天国とか宇宙と捉えるとまた違った意味になってきます。
山口志道の言霊学では、
- あ=五十連の水火(いき)の総称
- め=めぐる
と解きます。
水火(いき)とは相反する概念、つまり陰と陽です。
古事記ではイザナギイザナミが「天の浮橋(あめのうきはし)」に立って国生みをします。
字面で読み解くと「天国にかかった橋」と理解できますが、言霊で解くと陰と陽が巡っている場所(橋)となります。
つまり、古事記の国生みのくだりは、試行錯誤しながら国(様々な現象)を生むことが大事だよというメッセージなのです。
合気道の植芝盛平も天の浮橋に立って国生みすることの重要性を強調しています。
ただ、『天の浮橋に立って○○せよ』と言っても『このおっさん頭イカレてんのちゃう?』と思われるだけなので、今風に言うと、冒頭から述べているように誰もが突き当たる主観客観問題に早々と答えをだそうとするのではなく、主観と客観あるいは陰と陽(対立する概念)を何度も行ったり来たりしてぐるぐる巡って認識や体験を深めていき、その過程で創作やパフォーマンスをしなさい、と言う必要があります。
あと、この辺は何かを継続しないと分からないことなので、これからという人にはまだ必要ない概念かもしれません。
話が難しくなったので、結局どうすればいいのか分からなくなった人もいるかもしれません。
要は主観と客観をずーっとぐるぐる巡っているその状態が正解ですよということです。
僕もずっとその状態ですし、知っているプロの人を見ても皆同じです。
自分が正しいのか、間違っているのか、Aさんが正しいのか、Bさんの方が信用できるのか、誰かを信じる自分の選択は信じてもいいのか……答えが出ないままずーっと巡っています。
それ自体が天の浮橋だとすれば、まあこれでいいかと思っています。
きっと死ぬまでこんな感じなんでしょう。
早々と答えを出して陰と陽を巡らない人(天の浮橋に立たない人)は、だいたい脱落していきます。