昔から定期的に漢文不要論が説かれ、近年ではSNSを通して再燃しているようです。
確かに、現代日本人が中国人でも読めない、現代中国語にすら通じない古代の中国語をなんで学ばないといけないのか、そこに何の意味があるのかがとても分かり辛いですよね。
それに加えて、近年の中国政府に対する不信感もあいまって、漢文不要論が吹き荒れているのではないかと分析します。
僕はこれに反対です。
一番の理由は、僕が漢詩・漢文が好きだからです。
まあそれはいいとして、文化・教育的にも漢文は日本人に必要な知識であり、現代日本語にも欠かせない文章・表現であると断言できます。
以下、いち漢文好きのミュージシャンがなぜ漢文が日本人に必要かを分かりやすく説いてみたいと思います。
専門家ではないからこそ一般のアンチ漢文勢に響く説明ができるような気がします。
漢文というと、ひらがなカタカナなしで漢字だけ並んでいて、「レ点」だの「一二点」だの意味不明な記号がついた、思い出すだけでイライラする文章を思い浮かべる人がほとんどでしょうが、実はそれだけではありません。
漢文を読み下した文章も広義の「漢文」だし、もっと言えば漢文調の文章も「漢文」だと言えると思います。
例えば、
- 天、我が材を生ず、必ず用あり。
これを読んで「なんか堅苦しい日本語だなー」と思う人がほとんどでしょうが、これが即漢文だと理解できる人は意外と少ないと思います。
そもそもこれは李白の詩で、原文だと、
- 天生我材必有用
と書きます。
「奨進酒」という詩の一節です。
「天生我材必有用」も「天、我が材を生ず、必ず用あり」もどちらも漢文なんです。
もっと身近なところで言うと、
- 我は○○なり
というのも立派な漢文です。
何が言いたいのかというと、古めかしい日本語というのは、大和言葉を除けばだいたい漢文(調)だということです。
以下、こうした広義の漢文調の日本語(現代風にアレンジされたものも含む)を漢文と称します。
そして、この漢文がどれだけ我々の文化に根付いているか、漢文がなくなったらどれほどさみしい思いをしなければならないかを説いていきます。
漫画「北斗の拳」で、ラオウが死ぬ間際に口にする名台詞を知っている人は多いと思います。
- 我が生涯に一片の悔いなし!
これも立派な漢文です。
自分のことを「我」と言っている時点で漢文表現だし、台詞のリズムが漢文丸出しです。
原文にしてみると、
- 我生涯無一片悔
とでもなるでしょう(ここは自信ないw)。
この台詞にしびれた人は数多くいると思います。
さて、漢文が現代に必要ないとするのなら、この台詞を現代文にしてみましょう。
- 俺の生涯には一片の悔いもない!
まず、漢文が禁止であれば「我が」は使えません。
ラオウの性格からして、一人称はたぶん「俺」でしょう。
「悔い無し」も漢文になるので使えません。
ということで、できるだけ原文の格調を残しつつ日本語にすると上記のようになります。
さて、北斗の拳ファンのみなさん、これでいいですか???
なんか物足りなくないですかね?
ここで物足りないと思った人は、既に漢文不要論と矛盾が生じていますよ……w
今度は「るろうに剣心」を見てみましょう。
主人公緋村剣心は訳あって人を殺めないという誓いを胸に秘めています。
それを
- 不殺(ころさず)の誓い
と読んでいます。
これも立派な漢文です。
「ころさず」という読み方は純日本語っぽいですが、これは漢文の読み下し口調になるので、広義の漢文となります。
これを日本語にすると、
- 殺さないという誓い
となり、なんかちょっと締まりがなくなります。
他にも斉藤一の
- 悪即斬
も漢文ですね。
これを
- 悪はすぐに斬る
とするとなんか締まりがなくなります…
その他、漫画・アニメと言えば必殺技。
少年向けバトル漫画の必殺技といえば漢文がセオリーです。
- 北斗百烈拳
- 魔貫光殺法
- 邪王炎殺黒龍波
- 天鎖斬月
などなど、挙げていけばきりがありません。
もちろんこれらは正しい漢文ではありませんが、なんとかして漢文っぽい雰囲気を出そうとしているのが分かるし、男の子ならこうした漢字の羅列にワクワクしたことが一度はあるはずです。
自分で漢字を並べてオリジナルの必殺技を考えていた黒歴史を持っている人も少なくないはずです。
漫画やアニメは別、日常に漢文なんてないと思う人には別の例を挙げましょう。
例えば、
- 右の者この度規定による審査の結果初段を授与す
まあほとんど普通の日本語ですが、若干漢文の匂いはします。
ここから漢文の匂いを消すと、
- この度規定による審査の結果、あなたに初段を授与します。
となります。
これだとやっぱり締まりがないし、なんかちょっと馬鹿にされている気がしませんか?
余談ですが、賞状には文部省による規定があり、本文に句読点を打ってはいけないことになっています。
そもそも日本語には句読点というものはなく、それなしで読めることが教養でした。
句読点は明治以降誰でも文章が読めるよう開発されたのですが、長らく句読点を打って文章を書くことは相手に失礼にあたると敬遠されてきたそうです(お前は句読点を打たないと文章が読めないだろうと馬鹿にしていることになる)。
これ自体は漢文とは関係ありませんが、面白いので書いておきます。
さて、免状がもっとガチになるとこうなります。
以下は将棋連盟が定める初段の免状の文章です。
- 夙ニ将棋ニ丹念ニシテ研鑚怠ラス進歩顕著ナルヲ認メ茲ニ初段ヲ允許ス
ガチガチの漢文ですw
意味は、
- 日頃から将棋に真心をこめているうえに、研究を怠らないで進歩が著しいことを認め、ここに初段を許可する。
(引用同上)
だそうです。
現代語でもらうより、やっぱ漢文でもらった方がカッコイイと思うのは僕だけでしょうか??
最後に、現代日本語にどれだけ漢文表現が潜んでいるかを書いておきます。
以下の表現は全て漢文です。
- 我
- 故に
- 然り
- 即○○
- 否○○
- 不○○
- ○○也
もちろん、現代ではもう完全に日本語になっていますが、ルーツとしては漢文になります。
漢文がいらないのなら、
- 故に我々は不自由を感じる。
という表現ができなくなるので、
- だから私たちは自由でないと感じる。
と、文章の格調が落ちてしまいます。
また、最近はあまり使う人もいないようですが、臥薪嘗胆とか四面楚歌などといった四字熟語も漢文というか漢語です。
これらもなくなったらなくなったで結構困るんじゃないかと思います。
アニメや漫画で漢文表現が多用されていることはわかった、確かに自分もそれを楽しんではいた、また日常語にも漢文・漢語が多いというのも改めて理解できた。
それでもわざわざ学校の教科として学ぶ必要がわからない…
そう考える人に対して僕なりの見解を述べておきます。
学校で漢文を学ぶ意義は、日本語の歴史をリスペクトすることにあります。
使う使わない、好き嫌いは別として、日本語はこのように漢文を取り入れて現代の形に成長してきましたと教える意義は十分あるでしょう。
歴史は未来につながります。
まさにそれを温故知新という漢文で我々は学んできました。 母国語の歴史を否定する民族に未来はありません。
最後に、漢文は古代中国(中原)の死んだ言葉ではありません。
現代日本に生きている言葉であり表現です。
それらは形を変え、漫画やアニメ、賞状、さらに細かく考えると日常語として今も使われ、進化し続けています。
それだけ漢文が日本人にとってなくてはならないものだということです。
それでも漢文はいらないという人は、僕からすれば日本語がいらないと言っているようなものです。
もっと言えば、歴史がいらないと言っている危険人物に見えます。
まあ、本当にそう思っているのなら好きにすればいいのですが。