感動することは素晴らしいことです。
それ自体は全く異論はありません。
が、感動が最高の状態、最高の価値であり全てがそこを目指すべきかというと、意外とそうでもありません。
というのも、感動は意外と安っぽくてインスタントなものだからです。
感動というものは、どこにでもあります。
なにも人類史に残る大偉業を成し遂げなくても、ちょっとしたことでも自分や人を感動させられたりします。
同時に、心が震えて涙が止まらないほど感動しても、わりとすぐに薄れていき、数年もすれば完全に忘れてしまうことも多々あります。
そう考えれば、感動とは意外と安っぽくてチョロいものだと分かります。
だから各種エンタメで日々量産され、消費されるのでしょう。
僕は今まで様々な芸術作品やパフォーマンスに触れてきましたが、心に深く残っているもの、自分に強く影響を与えたものには、全て感動以上の何かが存在していました。
感動した!泣いた!心が震えた!一生忘れない!!などと簡単に言葉にできない、もやもやとして苦しい、でもどうしても捨てられない、忘れられない何か……。
そういったものは、だいたい後に自分に影響を与え、自分の血肉になっていきます。
一方で感動したもの、泣いたものはそのときの印象だけは強いけど、後になって考えても特に何も残っていないことが多いです。
また、歴史に残る作品を観たときも、意外と感動しなかったり、逆に冷めてしまったりすることがよくあります。
ただ、それらは既に歴史に残っているものなので、十分な価値があることは証明されています。
その価値に安っぽい「感動」が含まれていないことが多いという点を考えてみると、「感動」がどれほどのものかというのがおぼろげながら見えてきます。
まだ感動しか知らない、感動以上の何かを感じたことがない、どうやったらそれを知ることができるのだろう?と戸惑っている人は、歴史に目を向けましょう。
歴史に残っている名作は、だいたい感動以上の何かが詰まっています。
単なる感動だけなら恐らく歴史には残りません。
では歴史とはどれくらいの時間かというと、目安としては30年以上と考えていいでしょう。
もちろん、もっと古い方がもっと価値が高いと考えられます。
それらに触れたとき、だいたい感動はしません。
ほとんどは退屈で、なんか凄そうな雰囲気は感じるけど何が凄いのか、何がいいのかはわからない、もやもやした気持ちが残ります。
その中に感動以上の何かがあります。
それを時間をかけてじっくり抽出していけば、感動以上の価値観というものがおぼろげながら見えてきます。
ただ、そこまで到達できるのはやはり何らかの芸術に関わっている人でしょう。
一般の人からすれば、感動もしない、理解もできないものを何十年もかけて考え、体験し続けることに耐えられません。
だから人は手っ取り早い感動に流れていくのでしょう。
まあ別に、感動以上の価値観がなくても生きて世の中を楽しむのに問題はありません。
ただ、感動は搾取の手法としても成立するのでそれだけは気を付けた方がいいと思います。
昨今で言う「やりがい搾取」がそれです。
ビジネスとしてもそうですし、個人間のやりとりでも相手を感動させてコントロールする手法は存在し、既に実践している人もいるでしょう。
感動に流されない、感動以上の価値を知ることは、なにも芸術だけでなく、日常生活においても役に立つ価値観であると思います。