課題のための創作、練習のための創作を「習作」と言います。
また、私見ですが、本気で創作してはいるけどまだ一人前になっていない段階を「習作期」と呼びます。
要は、初心者からそこそこ上達して、一人前になる手前までの段階です。
習作期の特徴は、満点を目指して正解を探すところです。
また、全ての要素で正解を探り当てられたら傑作が生まれると無邪気に信じているというところも習作期独特の考えです。
音楽でいうと、メロディ、サウンド、歌詞、アレンジなどひとつひとつの要素で正解を探し、それをつないでいって完成させ、満点の楽曲ができればそれが傑作となりヒットするだろうという考えです。
結論から言うと、仮に満点を出せてもそのような結果にはなりません。
なぜなら、全ての要素で正解すると、完成した作品が不正解になるという不思議な法則があるからです。
これを知らないこと自体が習作期なのです。
芸術だけではなく、仕事でもあらゆる要素を完璧に詰めて、全てに満点を出し、絶対に成功すると確信を持って行ったものが見事にコケたというケースはいくらでもあるでしょう。
習作期を脱したプロの作品には、必ずどこか不正解が含まれています。
世の中から反響が大きいものほどその不正解もまた大きく、大胆に現れています。
ここで言う不正解とは、
作品とアーティストのミスマッチ
既成概念を越える作品
ルール破り
あえてダサいとされることをやる
時代に逆行する
周りが首をかしげるようなことをする
などなど。
正解とされることを行い、満点を目指すのが習作なら、不正解を行い、0点に向かいながら120点を目指すのがプロの創作と言っていいでしょう。
それをするには、ある一線を越えないといけません。
習作とプロの創作にある一線とは……
それは狂気です。
習ったことを守り、ルールに従い、正解を目指して行儀良くやってれば80点90点、もしかしたら100点が取れるのに、 あえてそこから60点、40点、あるいは0点を目指すとしたら、もう狂っているとしか言いようがありません。
でもそういうもんなんです。
一度習作で満点を取ってみれば分かります(それが具体的にどういうことかは個々のケースによりますが)。
世の中の誰も見向きもしてくれませんから。
でも一線を越えて狂気を持ってなにかをつくると、びっくりするぐらい反応が出てきます。
これは僕でも経験があります。
そうして、自分の中で越えなければいけない一線をやっと認識できるようになります。
では越えなければいけない一線=狂気とは具体的にどういうことでしょう?
これをやったら笑われる、馬鹿にされる、怒られる、これまで積み上げてきたものが崩れる、干されてしまう、誰からも相手にされなくなるようなこと、です。
もちろん、実際に行うとある程度の人からはそういう反応が返ってきます。
普通はそれが分かっているからやりません。
そして、誰からも笑われず、馬鹿にされず、自分の地位も脅かされない、人が寄ってきそうなこと=正解を目指して何かを作ろうとします。
それが習作です。
習作を行うことは、ある意味正常です。
誰だって正解とされるものを目指すし、失敗したくない、笑われたくない、馬鹿にされたくないと思うのは当たり前でしょう。
しかし、そこに越えられない一線があることもまた事実です。
それを踏み越えて、あえて不正解を行うことは、狂気としか言えません。
それをやるのが芸術家です。
だから芸術家は頭がおかしくないとできないのです。
ではその狂気の一線を越えるにはどうすればいいのか?
勇気を出す、
これしかありません。
しかし、その勇気はどれだけ練習しても、どれだけ上手くなっても身につきません。
だから多くの人が狂気の一線を越えられず習作に留まり、世に出られずに消えていきます。
中にはプロで十分通用する技術や知識を持っている人も沢山います。
そういうい人が世に出るためには、勇気を持って狂気を遂行する、これだけです。
恐らく一線を越えられない人はこう言うでしょう。
「越えられる人は最初からそういう人なんだ。自分はそうではない……」
これは違います。
確信を持って言えますが、どんなに狂ったように見える人でも、一線を越えるときは必ず恐怖と戦っています。
例えば、僕が狂ったようにジャズ批判をしたり、世の中にない教則本を書いたりするのは僕が最初からそういう人間だと思っている人がいるでしょうが、そんなことはありません。
一線を越えるときはいつも吐きそうになりながら恐怖と戦い、世に出した後は外国に逃げたくなるぐらい不安に襲われます。
まあさすがにちょっと慣れてはきましたが、怖くないことは一度もありません。
もっとすごいものをつくる人は、もっと強い恐怖や不安と戦っているはずです。
それでも一歩踏み出せるか、留まるか、それだけの違いです。
習作期のゴールが見えてきている人は、ここと対峙する腹をくくりましょう。
もし一歩でも越えられたら、必ず今までと違った景色が見えてきます。