「最近の若者は怒られ慣れていない」とよく聞きます。
だから怒ったら/怒られたらそこでコミュニケイションが終了してしまうとかなんとか。
これについて、どちらかというと若い子が弱くなってしまったことが悪いけどそれに合わさなければ仕事や学業が回らないことが増えるので仕方なく若者に合わせよう、という論調が強い気がします。
しかし、そもそもこの「怒られ慣れ」って何なんでしょうか?
おそらくこれは、怒られている側が示すべき態度のテンプレだと思われます。
そのテンプレを実行できないからディスコミュニケーションが発生し、仕事などが機能不全に陥るということでしょう。
逆に言えば、怒っている側はテンプレ対応を求めているということにもなります。
ではその、怒られたときのテンプレとは何なんでしょう?
そもそも、怒っている人は何を求めているのでしょう?
怒る人は、基本的にそこから先の台本を描いています。
彼らはその台本通りに物事を進めようとし、その第一歩として怒ります。
まず最初に上の者が下の者を怒る。
その後、怒られた側が反省し、怒った側に謝罪。
怒った方は怒られた者を許し、双方和解。
その後、怒る前よりも相互理解が進み、結束力が固まり、より高次のパフォーマンスを発揮する(←ここがゴール)。
これが怒っている側が描いている台本です。
ネタ元が何なのかは知りませんが(70年代のメロドラマなのか、それとも江戸時代あたりの読み本?)とにかく、ある世代までの「怒る人」は全てこの台本を頭に描いて怒ります。
怒る人がよく言う「怒るのは愛情」「相手のためを思って怒っている」というのは、この台本のゴールを想定してのことです。
つまり、「怒られ慣れ」とは、この安っぽいメロドラマに乗っかって台本通りに演技できる能力のことです。
今の50代以上の人たちは、「怒る→反省と謝罪→和解→より高次のパフォーマンス」というメロドラマが本当に大好きで、何かにつけてこの流れを仕掛けてきます。
小さい頃からそうやって鍛えられて(?)いると、だんだんこのドラマにどうやって乗っかればいいのか、どこにゴールがあるのかが分かってきます。
そうして怒られたとき『あ、次俺が反省して謝罪する番ね』と簡単に役に入ることができるようになります。
そうやって怒る側も怒られる側も安っぽいメロドラマの役を演じることで相互理解が深まり、社会が回っていく、ある時期まではこの手法以外に存在しませんでした。
ある時期までは上記のような安っぽい台本のメロドラマが本当に機能していました。
最終的にパフォーマンスを向上させれば、それなりに個人や組織に還元されたからです。
しかし長引く不況で、それもままならなくなりました。
さらに、ネットの出現により価値観が多様化されます。
金と地位は誰もが無条件に求めるステータスではなくなりました。
そうしていつの間にか、一連の怒りに端を発するメロドラマが機能しなくなったのです。
「より高次のパフォーマンス」というゴールにたどり着いても何も得られるものがないと若者は気づきました。
そうなると当然、そこを目指す必要もなくなります。
その結果、若者は一連のメロドラマの筋書きが描けず、そのとっかかりである「怒る」が理解できなくなったのではないかと推察します。
若者にとって「怒られる」とは、本当に「怒られている」だけで、その先に自分がやるべき役割や、流れがあるというのが全く想像もつかないのでしょう。
『怒るだけじゃなくて何をすべきか教えてほしい』という意見がそれを物語っています。
僕は以前教室でよく怒っていました。
嫌な思いをした方はごめんなさい。
反省しています。
僕が怒っていたのは、おそらく上記のメロドラマを想定していたんだと思います。
しかしある時期から怒るのは一切やめました。
怒ったぐらいで人は変わらないし、こっちも疲れるし、のんびりやった方が生徒さんも続けてくれるからです。
また、今回の記事を書いて、改めて怒ることが恥ずかしいことだと認識しました。
怒るとしたら、それは本当に対立し、決別の意を持ったときだけでいいのでしょう。
逆に若い子で50代以上の人に好かれたいと思ったら、怒られ慣れしておきましょう。
やり方は既に書きました。
もっと効果的な台詞とか表情が知りたい人は80年代ぐらいの学園青春ドラマを観れば分かります。