よく「本物に触れて感性を磨き云々」と言われます。
僕もずっと音楽をやってきたり、文学を読んで来たので、それを盲目的に信じ、本物と言われるものにできるだけ触れようとしてきました。
で、その都度だいたいがっかりしてきました。
例えば本物のモナリザを観たとき。
どんなに凄い絵なんだろうとワクワクしていたのですが、本物を前にすると、人だかりの奥に小さな小さな絵があって全然落ち着いて観られず、
「ちっちゃ!」
「人ウザw」
「もうええわ……」
とすぐに退散しました。
スマホがない時代でこれですから、今ならもっとイライラするでしょう。
ジャズの大御所をはじめて観たときも、どっちかというと「ふぁっ? これが?」という感じでした。
本物のムエタイをタイのスタジアムで観たときも、ロープが邪魔でよく見えなかったり、選手も小柄であんまり迫力がなくてがっかりしました。
はじめてヴィンテージギターを弾いたときも「お、おう……」という感じでした。
その後30代ぐらいから本物に興味がなくなってき、美術館やコンサートもめっきり行かなくなりました。
ところが、40歳になってふと「本物って実はがっかりするために観るものなのでは?」と思い、すぐに三島由紀夫の金閣寺を思い出しました。
主人公溝口は、父から金閣寺ほど美しいものはないと教えられてきました。
彼はそれを信じ、あらゆる美しいものの中に金閣寺を夢想するまでになります。
そして父の計らいで夢にまで見た本物をはじめて目にしたとき、溝口は
美というものは、こんなに美しくないものだろうか(後略)
(新潮文庫、金閣寺)
とがっかりします。
しかしその後、溝口の心の中に改めて金閣寺の美が再構築されます。
僕は今までこのシーンを単なる芸術鑑賞あるあるだと思ってきましたが、実はこの<妄想→落胆→再構築>というプロセスは、一人の人間の中で美を培養するために必要不可欠なものではないかと考えるようになりました。
本当の美とは、本物にがっかりした後に生まれ、育まれるものではないかと。
例えば、これまでに本物に触れて心底感動した経験があります。
フランスでモンサンミシェル城を観たときは本当に心の底から感動し、大げさではなく自分が生まれ変わったかのように感じました。
もう20年近く前のことですが、今でもそのときの感動はありありと思い出せます。
しかし、よくよく考えてみれば僕の感動はそこで終わっており、全く更新されていないことに気づきました。
20年前に”本物”を観て以来、モンサンミシェルにまた行きたいと思ったことは一度もないし、歴史を調べたこともありません。
仮に一生いけなくても別にいいです。
つまり、本物のモンサンミシェルを観て感動した結果、僕の中でモンサンミシェルという存在が完了したということです。
この完了は永遠の停滞であり、つまり死です。
どうやら、本物への感動は、その対象を自分の中で死滅させる作用があるらしいということがようやくわかってきました。
ではもしいまだにモンサンミシェルに行ったことがなかったら?
あるいは行ったけどたいしたことなくてがっかりしていたとしたら……?
きっとモンサンミシェルは僕の中で更新され続けているはずです。
三島はその辺を熟知しており、金閣寺に上記のシーンを挿入したのでしょう。
三島ヤバい……(書いたとき30歳www)。
「本物に触れて感性を磨いて云々」という言葉を、昔からどうもうさんくさいなあと疑ってはいましたが、やっとそのうさんくささの根源を突き止めることができました。
美とか感性とかいうものは、本物にがっかりしてからがスタートなのでしょう。
そういえば本物にやたら感動してる人ってあんまり芸術家にならないですしね……。
これから芸術方面を目指す人は、本物に触れてがっかりした体験を大事に取っておいてください。
しばらくしたらそこから何かがはじまります。
本物を観てなんでも感動する人はあんまり芸術向いてないです……