様々なカヴァーで知られる「なごり雪」の歌詞は、最近の世代にはちょっとわかり辛いとされています。
そこで今回はこの歌詞をじっくり解説してみたいと思います。
この歌詞の難しさは、直接的な表現が少ないことと、因果や時系列が一本化されておらず、あちこちにちりばめられていることです。
例えば、歌詞の1、2節目を理解するために3、4節目あるいはもっと先を読まないと分からないといったつくりになっています。
しかし、情報を拾い上げ、丁寧に組み立て、その奥にある行間を掘り下げていくとまるで純文学のようなストーリーやその奥に込められた(もしかしたら作者も考えていなかった)メッセージが浮かび上がってきます。
では見ていきましょう。
汽車を待つ君の横で僕は
時計を気にしてる
季節外れの雪が降ってる
(作詞作曲:伊勢正三、以下同じ)
主人公は男性。
「僕」とすることで若い男の子を示唆しています。
その「僕」は時計を気にしています。
なぜでしょうか?
雪が降って寒いから早く電車(汽車)こないかな……ではちょっと情緒に欠けます。
「僕」が時計を気にしているのは、3、4節目で出てくる「君」が行ってしまうことに名残惜しさを感じているからです。
これが一つ目の「名残」です。
なごり1、別れの名残。
そんな中、雪がちらちらと降っています。
「東京で見る雪はこれが最後ね」と
寂しそうに君はつぶやく
「君」は、後に「きれいになった」とあるので女性です。
また、「君」という呼び方を考えるとかなり親しいと思われます。
さらに、ここで二人は東京にいるということが分かりました。
「僕」は東京に残り、「君」はどこかへ去っていきます。
そんな「君」は「東京で見る雪はこれで最後ね」と「寂しそう」につぶやきます。
それにしても、なぜ「これで最後」なのでしょうか?
たとえ海外に行ってしまっても、またいつでも冬に東京に帰ってくればいいだけなのに。
ここでかなり行間を読まないといけないのですが、おそらく「君」は地方出身者で、一度は東京に出てきたものの、今から地元に帰って結婚するのでしょう(これは後に示唆されます)。
東京か首都圏出身であればまた実家のある東京近郊に必ず帰ってくるはずだから、例えどこかに嫁ぐとしても「これで最後」はおかしいです。
1974年の歌ですから、当時は地元(あるいは旦那さんのいる地方)で結婚すれば、もうそこから出られないという感覚だったのだと思います。
また、この台詞から「君」には秘めた感情があることが後にわかります。
なごり雪も降るときを知り
この「なごり雪も降るときを知り」が非常に難解です。
まず「なごり雪」という言葉はそもそも存在せず、作詞した伊勢正三さんの造語だそうです。
考えられる解釈は次のふたつ、
・なごり惜しそうに雪が降るという現象があることを僕ははじめて知った
・なごり雪は降るタイミングをちゃんと知っている
これはどっちでも良さそうな気がします。
ふざけすぎた季節の後で
この場合の「季節」とは、春夏秋冬のことではなく、人生の季節のことです。
でないと次の一節がわからなくなります。
「ふざけすぎた季節」とは、少年少女時代から思春期のはじめぐらいの時期のことでしょう。
今春が来て君はきれいになった
この「春」もたんなる季節としての春のことではありません。
人生の春のことです。
では人生の春とは何かというと、おそらく結婚のことと推察できます。
もちろん、結婚するのは「君」です。
そこで一節前から再度解釈すると、
「ふざけすぎた季節のあとで、今春がきて君はきれいになった」=「少女時代から思春期を過ぎ、今結婚が決まり君はきれいになった」という意味でしょう。
また、「僕」は「君」がきれいになったことにわりと最近気づき、悔やんでいる節があるのが後半わかります。
去年よりずっときれいになった
この「去年」はそのまま捉えていいと思います。
今が3月ぐらいだとしたら、もしかしたら去年の12月ぐらいまではまだ全然子供っぽかったのかもしれません(「君」が「幼い」という表現は後に出てきます)。
「君」は「去年」の暮れに帰省し、前々からもらっていた縁談を年明けぐらいに決めたのでしょうか?
もしかしたら去年のクリスマスあたりまでは「僕」の動きを待っていたのかもしれません。
しかし何もなく(「僕」は「君」を「幼い」としか思っていなかった:後述)、「君」は年が明けて腹をくくり、縁談にOKを出した……と、そんな空想も膨らみます。
動きはじめた汽車の窓に顔をつけて
君はなにか言おうとしている
さて、そうこうしているうちに汽車は駅に到着し、とうとう「君」は乗ってしまいました。
しかし「君」は窓に顔をつけて何か言おうとしています。
君のくちびるが「さようなら」と動くことが
怖くて下を向いてた
「僕」は見送りに来ているのに、「さようなら」と言われるのが恐いようです。
ここでようやく、「僕」には単なるお見送りの以上の感情があるとはっきりしました。
ここからさかのぼると第一節の「時計を気にしてる」が行って欲しくないからというのが分かります。
また、「君」にもどうやら「僕」に対して秘めていた感情があるらしいということも匂ってきました。
そうすると「東京で見る雪もこれが最後ね」という言葉もまた意味が変わってきます。
もしかしたらそれを言うことで「僕」に「最後じゃねーよ!俺がまたお前に東京の雪を見せてやる、だから待ってろ!」と言って欲しかったのかもしれません。
あるいは「俺が毎年東京の雪を見せてやる、だから行くな!」と引き留めてほしかったのかもしれません。
でも何も言ってくれない「僕」にがっかりして汽車に乗ったものの、いざ別れのときになると感情があふれてきたようです。
ここで「君」の心にも名残があることがわかります。
なごり2、「君」の心の中にある名残。
時が行けば幼い君も
大人になると気づかないまま
ここで新たな情報が出てきました。
それは「幼い君」です。
といっても、これだけで二人は幼なじみだとするのは早計でしょう。
そうすると地元が一緒ということになるし、それならこの歌詞に漂う二度と会えない感が薄れてしまいます。
この場合の「幼い」はおそらく容姿や言動のことでしょう。
しかもそれは、日本人男性が持つ独特の(旧来のといってもいい)女性観です。
女は子供、女は無知、だから俺がいなくちゃ何もできない……といったアレです。
また、そういった幼いキャラをキャラだと見抜けず本当の性格だと思い込んでしまい、急に相手が成長したら驚いて騒ぎ出す男性特有のアレです。
キャラにせよ天然にせよ、男は馬鹿ですから女性の幼さや子供っぽさがいつまでも続くと高橋ジョージのように思い込んでいます。
しかし既に述べた通り、「君」はなんでもないような……いや、かなり早いスピードできれいになっていきました。
当然、それに合わせて中身も大人になっていったのでしょう。
「僕」はそれに「気づかないまま」おいてけぼりをくらって呆然としています。
細かいことを言うと「気づけないまま」なら気づこうとする意志があったのでまだましですが、「気づかないまま」なので本当に「君」が大人になるなんて1ミリも考えなかったのでしょう。
こうした日本人男性の甘さは現代にも通じています。
そうした「幼い君」に対する幻想を「僕」は名残惜しんでいます。
なごり3、「幼い君」への名残。
君が去ったホームにのこり
落ちてはとける雪を見ていた
最後に雪を見ながら「僕」は名残の総決算をしています。
・別れのなごり。
・「君」の心のなごり。
・「幼い君」のなごり。
それらを雪になぞらえ、すっと解けて消えていく様子を見ているのが日本人らしくてなんとも美しいですね。
この後、「去年よりずっときれいになった」を連呼しますが、ここも要注目です。
この「去年よりずっときれいになった」「君」とは、「僕」の心の中にある幻ではなく、今現在のリアルな「君」です。
幻想的で淡い歌詞ですが、リアリズムでしっかりと締めくくっているところにも注目するべきでしょう。
なぜそうしたのかというと、私見ですが、この歌詞は日本人男性が持つ女性への幻想を断ち切るという裏テーマがあるのではないかと思います。
といってこの曲がフェミニズム的なメッセージソングであるとは僕は思いませんし、この記事もそういった文脈では書いていません。
川端康成は「伊豆の踊子」で、まるで「なごり雪」における「幼い君」のような少女と出会い、生きる力を得る青年の物語を描きました。
また「伊豆の踊子」では少女は一切成長していません。
一方「なごり雪」を作詞した伊勢正三は、「幼い君」を少女から大人に成長させ、一足早く大人へと旅立たせることで青年を打ちのめします。
「君はいつまでも少女のままで云々」といった歌詞は90年代ぐらいまで掃いて捨てるほどありましたが、それを考えると74年発売の「なごり雪」の歌詞がどれだけ先進的な内容であるかがわかるでしょう。
「なごり雪」は、淡いようで実はこれでもかというぐらい強烈なリアリズムをリスナーに突きつけているという点を認識しておくべきでしょう。
とまあこれは僕の勝手な解釈であり、答えではありません。
それぞれが自分の解釈や自分の物語と照らし合わせて楽しめばいいと思います。