前回、批判は受け入れるべきだが否定からは逃げるべきだと書きました。
では批判と否定はどう違うのでしょうか?
その見分け方などを考えてみました。
批判の特徴は、対象が限定的で、またその先の方向性を(正しいかどうかは別として)示唆するものです。
例えば何かで自分がミスをしたとしましょう。
それに対する批判は、言葉が増えれば増えるほどそのミスに限定されていきます。
言い換えれば、話はどんどん小さくなっていくということです。
だからまっとうな批判であれば、話を聞けば聞くほど安心できますし、また、次につながる何かを発見できます。
作品に対する批判も同様です。
例えば、僕の「未来激剣浪漫譚 ADAUCHI」という小説には、『前半が硬い、重い』という批判が寄せられました。
まあちょっとざっくりした批判ではありますが、作品を通り越して僕という人格まで攻撃したものではないし、ではどうすればいいかという次の行いも示唆しているので(もっと前半から展開を早くして読者を楽しませるべき)、批判として受け止めてしっかりと次に生かすことができました。
これが正しい批判です。
では否定はどうでしょうか?
否定の性質は、話がどんどん大きくなり、しかも聞けば聞くほど何をすればいいのか分からなくなります。
その結果、自分という人間や人格全てでそれを受け止めてしまい、傷つきます。
例えばあるミスに対し「お前何やってんの? ちゃんとやれよ!」といった叱責だけで終わったとします。
これでは自分のミスが具体的に何なのかが分からないし、次につなげることもできません。
また、叱責に具体性がないが故に、それが自分という全人格にのしかかってきます。
そうして自分という人間そのものを否定されたと感じてしまいます。
後は耐性と習慣の問題です。
前回にも書きましたが、僕の世代はこういった言葉への耐性が強く、また、ざっくり怒られた後に自分で対策を探すということにも慣れているので特に潰れることもありません。
しかし今の子ならアウトでしょう。
では今の子が弱いのかというと、僕はそうは思いません。
僕らの世代が異常だっただけです。
話を戻すと、否定論者はわざと具体的な注意をしない傾向があります。
表面的には「自分で気づかないとダメ」「考える習慣がつかなくなる」などと綺麗事を言いますが、心のどこかでは人格攻撃を望んでいるのでしょう。
だからわざと核心をはぐらかし、相手が自分の言葉に動揺したり、自分の言葉が相手の心の中に深く根付いていき、全人格に影響を及ぼすのを観察している節があります。
その後ろめたさから、否定することの崇高さや効果を美しく飾り立て、それに耐えられない者を口汚く罵ります。
僕より上の世代にはこういう人がごろごろいます。
簡単に言うと、注意や叱責をされた後に明るく前向きになれるのが批判です(内容がピンポイントで、全人格にのしかからないから)。
逆に、暗くなり何をしていいのかわからなくなるのが否定です。
前者にはどんどんぶつかっていくと成長させてもらえます。
後者といると泥沼にはまっていくのでさっさと離れましょう。