昨今では何でも批判的・否定的な意見をDisと呼んで一緒くたにする風潮がありますが、批判と否定は違います。
英語でも、Disrespectは批判ではなく中傷や侮辱、批判はCriticizeとはっきり言葉が別れています。
批判は限定的で、否定は全的です。
批判には必ず愛情がありますが、否定には必ず悪意があります。
批判は自分をポジティブに強くしてくれますが、否定は自分をネガティブに強くします。
ぼくの世代(1978年生まれ)は、「否定されたら強く育つ」という教育がまかり通っていました。
そうした否定は、限定されたものごとをやすやすと乗り越え、すぐに人間そのものへと向かいます。
例えば「字が汚い」という否定は、すぐに「だからお前は人間性がダメだ」と全人格的な否定になります。
実際、学校はもちろん、クラブ、サークル、家庭でもこうした人格否定は当たりまえの行為でした。
確かに、それらは自分を強くしたと思います。
しかし、その強さはネガティブなものです。
自己不信、他者への猜疑心、劣等感、承認欲求……否定から生まれる強さはそうした感情に裏打ちされています。
ある種、人としてやけっぱちになったところに生まれる強さです。
単純に強いか弱いかでいうと、そういう人は強いでしょう。
では幸福かというと必ずしもそうではないと思います。
また、虐待の連鎖といった現象があるように、そうした否定の連鎖も起こります。
パワハラ、モラハラといった行為は、間違いなく周りから否定されて育った経験から生まれたものでしょう。
一昔前ならそれでも社会でやっていけましたが、今はもう通用しません。
否定されて強くなり、連鎖としてその否定行為を他人に行い、その結果としてハラスメントで社会から制裁を受けてしまっては、何のための強さなのかわかりません。
否定にはそうしたネガティブな力が働きます。
ですから、否定してくる人からはさっさと逃げた方がいいです。
ただ、難しいのは否定なのか批判なのか分からない場合です。
否定からも逃げ、批判からも逃げてしまっては人として成長しません。
では否定と批判の違いは?
単純に愛情が感じられたら批判かというとそうでもありません。
極端に言えば、虐待や洗脳されている人はその相手から愛情を感じているでしょう。
また、若いうちは余裕がないので、まっとうな批判なのに拒絶してしまいます。
結局は、否定も批判も両方をたくさん経験しないと違いがわからないのでしょう。