美というものは、どれも同じようでいて、実は生成される過程によって様相が違ってきます。
ある特定の美に到達しようとする場合、一般的に美に到達できるとされる方向と真逆に向かって進んでいかなければならないケースもあります。
ジャズがそれです。
一般的な美はまず安定に向かい、そこを通り越して完璧へと至る段階において生成されます。
特に日本人なら誰もその方向性を疑わないでしょう。
しかしジャズは違います。
ジャズの場合は、美を求めて早い段階から崩壊へと足を進めます。
もちろん、ごく初期では安定を目指すことはありますが、そこを過ぎればすぐに崩壊を目指していきます。
といっても本当に崩壊するのではなく、その手前ギリギリのところを目指して進みます。
なぜなら、そこに、ジャズにしかない美があるからです。
アウトにしろ、スゥイングにしろ、リハモにしろ、ジャズの独特の美しさは、必ずその一歩先に崩壊が見えています。
そこへと落ちてしまうギリギリのところに美を見いだすのがジャズであり、黒人文化なのでしょう。
余談ですが、そうした土着的な、あるいはローカルな美を追究してきたジャズにおいて、その土着性・ローカル性を克服し、ジャズの美に普遍性を持たせることに成功したのがマイルス・デイビスなのだと僕は考えます。
まあそこは別の話として、安定から完璧へと至る道は、ジャズから完全に背を向けていることになります。
もちろん、そちらにも美はあります。
ただし、それがジャズの美であるかというと、僕にはそうは感じられません。
完璧な楽器の発音、完璧なタイム、完璧なアウト……往年のジャズファンならイメージしただけでオエッとなってしまうでしょう。
一方で、2018年の今でも聴き継がれている名盤には、必ずどこかギリギリなところがあったりします。
それは、技術が未熟だとか、いい加減だとか、昔だから仕方ないとか、薬でラリってたからとかではなく、ジャズの美を求めて正しく崩壊へと進んでいった証拠です。
ジャズの美はそこにしかないと僕は思うし、ジャズミュージシャンもジャズファンも本当は分かっていると思うのですが……。
ジャズを聞くときは、ぜひそういった観点でギリギリの美を楽しんでほしいと思います。
とはいえ、それが聴けるのはほとんど半世紀も前の音源ばかりなのですが。