時折アーティストで「人生は戦うか逃げるかの二択しかない」みたいな熱いことを言う人がいます。
僕にはあまり興味のない考え方だったのですが、一度アーティスト視点でちゃんと考えてみたら面白いことがわかってきました。
「戦い」の終着点は政治です。
「戦い」と称するものが、暴力であれ権利の獲得であれ、経済的成功であれ名声の獲得・保護であれ、それらを決着させるのは政治に他なりません。
ここで言う政治とは、二者間の合意、契約の締結、裁判における判決などです。
つまり実生活における「戦い」とは、自身が勝利するための政治的奔走を意味します。
それ自体は問題ないし、何かがあったときにそうやって奔走でき、勝利を掴める人は強い人だと思います。
が、そこには美がありません。
しかもその「戦い」における勝利が大きければ大きいほど美は小さく薄くなっていきます。
実人生における戦いとその勝利は、美と芸術を無効化する作用があるのです。
しかし、「戦い」が美を生み出し、それ自体を芸術に昇華する方法がひとつだけあります。
それは本人の死です。
それも道半ばで、できるだけ悲惨な死に方をするほど美は高まります。
芸術家でいうと、バイロンや三島由紀夫がそれです。
バイロンはともかく、三島は間違いなくその効果を狙って自刃している節があります。
一方で「逃走」には遅効性の美が存在します。
人は何かから逃げることで様々な感情に出会い、また様々な社会的状況に追い込まれます。
自己肯定と自己否定、批判と擁護、安堵と不安、一時的な保身とそこから生まれる新たな危険……。
それらが攪拌されると、不思議なことに美が生まれます。
名作文学の主人公がほぼ必ず「逃走」的性格を持っているのは、作者がそこから生まれる美と物語を確信しているからでしょう。
ドストエフスキー「罪と罰」のラスコーリニコフ(老婆を殺害して逃走)
川端康成「伊豆の踊子」の主人公(孤児、卑屈、ロリコン)
三島由紀夫「金閣寺」の溝口(どもり、卑屈、放火魔)
ラディゲ「肉体の悪魔」の主人公(不倫相手を孕ませて責任取らず)
綿矢りさ「インストール」の朝子(登校拒否)
などなど、数えれば切りがありません。
また、田中慎也氏が何かのインタビューで「嫌なことがあったらまず逃げる」とさらりと答えていたことも記憶に残っています(情熱大陸だったような…)。
その他偉大な芸術家は必ずと言っていいほど「戦うか逃げるか」の二者択一で逃げる方を選んでいるように思えます。
実人生における戦いと逃走には、このような意外な作用があります。
そう考えると勝利を目指して戦うことを是とするアーティストは、自ら芸術や美を遠ざけているように思えて奇異に感じられます。
まあ結局主観なのですが。