<逸脱>がジャズの精神であるという僕の持論には、ジャズミュージシャン含め多くの方が納得してくださっているように思えます。
一方で、「ジャズにもルールがある、そのルールを破って<逸脱>するのはめちゃくちゃなだけ」と言う人もいます。
ちょっと難しい問題ですが、このジャズとルールの関係性には、すでにジャズ的な回答があるので、先にお答えしておきます。
ルールは尊重するべきだが、ルールを破った行為も同じくらい尊重するべき(ただし格好よくなければダメ)。
というのがジャズとルールの関係性です。
これはジャズの歴史を紐解けば自ずと理解できることです。
ただ、ここにははっきりとダブルスタンダードが含まれていますし、そもそもルール違反も尊重されるのならルールの意義がなくなってしまいます。
しかし、ジャズの世界にはルールとルール違反が同時に存在しており、いずれも同じくらいリスペクトされているのです。
ここが日本人にはわかり辛いところでしょう。
日本人はまず、ルールに厳密さを求めます。
そしてそれを破った(とされる)者は容赦なく排斥し、断罪します。
仮にそれが勘違いや思い込みであっても、見切り発車でルール違反者を叩きます。
それはジャズシーンにおいても同様でしょう(だから演奏が縮こまってしまう)。
しかし黒人はこのシリーズで再三述べている<逸脱>の精神から、ルール違反者に対してもかなり寛容な姿勢が見られます。
それどころか、時として尊敬されたりもします。
音楽においては特にそれが顕著で、歴史に残る黒人ミュージシャンは例外なくルール違反者と言えるでしょう。
面白いのは、そのルール違反的な行為(音楽上の)が後々評価されたのではなく、リアルタイムで評価されていたということです。
もちろん最初は黒人コミュニティ内での評価に過ぎなかったのでしょうが、それはそれでかなり特異な現象ではないでしょうか?
ではジャズという音楽はとにかくルールを破るものなのかというと、それはそれで違います。
ルールはやはりルールとして守るべきです。
しかし、勇気と信念(破った方が絶対格好よくなる!)を持って行われたルール違反行為も同等に尊重する寛容さが必要なのです。
そのギリギリのせめぎ合いの中で生まれるのがジャズです。
ジャズは我々日本人に、ルール違反に対する寛容さを教えてくれる音楽だと言えるでしょう。
ジャズを学ぶということは、そういった精神を学ぶことであると僕は思います。
スケールやハーモニー、アドリブ、アウト、もっと言えばスイングなどのグルーヴですらもしかしたらどうでもいいことなのかもしれません。