前回の記事の追記です。k-yahata.hatenablog.com
本記事は上記記事をご理解いただいているという前提で進めていきます。
未読の方はお手数ですがご一読ください。
確かに、ビッグバンド形式ではよりかっちりしたアレンジと、各パートの自制や連携が求められます。
とはいえ、ありかなしかで言うと、僕はありだと思いますよ。
ただし<回復>あるいは<着地>がちゃんと見えていて、何が起こってもそこへと到達できる技量があればの話です。
今回の少年(ドラマーの中学生)にはその技量がなかったようなので、そこは批判・叱責してもいいと思います。
ありです。
少年の心中はわかりませんが、もっと叩きたかったから叩いた、それだけでしょう。
そして、次に待っていた子は、自分も叩きたければ自己主張するべきです。
もちろん、手を出したり妨害してはいけませんが、例えば少年が叩いているセットに近寄り、ライド(シンバル)を叩いて「代われよ」とアピールするとか。
それぐらいのガッツは必要です。
僕が指導者なら順番待ちをしているドラマーに「お前、いいのか?叩きたかったら行ってこい」と指示すると思います。
「じっと指示を待つ」というスタンスはジャズ的には明確な批判対象になります(主に海外でですが)。
「次に待っている子のことも考えてあげて」と考えるのは日本独特の価値観です。
弾きたい(叩きたい)ならたとえ他人とぶつかってでも自己主張する、それがジャズの常識です。
少年にはその(ジャズの)常識があったのでしょう。
逆です。
ジャズにおける<逸脱>は文字通りルールからの逸脱です。
アウト然り、バップ時代のコードの細分化然り、モード然り、フリー然り……。
やったらダメだとされていることをやる→カッコイイ!とそれが広まる→誰かが理論付けし整備→新ルールとして定着→そのルールをまた誰かが破る→カッコイイ!と広まる……このループがおおまかなジャズの歴史です。
ここにはふたつの<逸脱>があります。
認可された<逸脱>
未認可の<逸脱>
認可された<逸脱>はこんにち我々がジャズとして学ぶ内容です(それらはかつて未認可であり反則であり事件だった)。
未認可の<逸脱>は、誰もやっていない、一見めちゃくちゃ、ルール無視、冒涜のように見えますが時間と共に認可され、新たなルールとして成立する可能性もあります。
重要なのは、未認可の<逸脱>が持つ可能性の芽を無造作に摘まずに暖かく見守ることです。
それがまだ子供ならなおさらのことです。
日野皓正は未認可の<逸脱>の芽を暴力という最低の方法で摘んだのです。
これほど非ジャズ的な行為はないと僕は思います。
違います。
僕が説明する<逸脱>とは、言うまでもなく音楽上の精神であり行為のことです。
確かに、ジャズのレジェンドたちは人間的にも社会的にも<逸脱>していました。
ジャズ黄金期のミュージシャンのガチクズエピソードは枚挙にいとまがありません。
その辺に興味がある人はマイルスデイビスの自叙伝がおすすめです。
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ただ、僕の知ってるかぎりではジャズミュージシャン自身が「社会から逸脱しろ!」というメッセージを発しているケースはひとつもありません。
ここがジャズがパンクでもロックでもないところです。
社会から<逸脱>することがジャズだという精神はジャズの世界にはありません。
だからジャズは後にインテリの音楽、大人の音楽として認知されるようになったのでしょう。
この意見には賛成です。
ただし、非難されるべきは<回復>できなかったという点であり、<逸脱>したこと、その勇気は賞賛するべきです。
そもそも、中学生ですよ?
ジャズ歴でいうと長くても10年未満、せいぜい3~4年といったところでしょう。
そんな子が世界的ジャズミュージシャンの監督する舞台で自分の意思に従い<逸脱>したということが僕にとってはこの上ない痛快な事件です。
少なくともジャズを知っている人はこの少年を絶賛するべきだと僕は思うのですが…
これは真っ先に考えたトピックですが、選択肢がありすぎて書けないのと、口だけなら何とでも言えるのであえて控えていました。
最も無難で事故を回避しやすい<回復>方法は、「無理矢理テーマに戻る」です。
「テーマ」とは楽曲の主題部分で、ジャズの一般的な形式としてソロ回しの後にここをみんなで演奏して終わります。
「テーマ」がはじまったら少年も『もう終わりだ』と理解して合わせにくるのではないかと思います。
ただし、これも机上の空論でしかなく、少年がトランス状態であればテーマに戻ってもずっとソロを叩き続けていたかもしれません。
その他、あえてぐちゃぐちゃのフリーにするとか、日野がバトルでねじ伏せるとか、音楽的選択肢はいくらでもありますが、部外者が「こうすればよかった」と断言することは無責任かと。
言わんとしていることはわかりますが、教育が目的ならジャズという媒体を選ぶべきではないです。
なぜなら、ジャズの形式や精神は日本の児童教育と相容れない要素を多分に含んでいるからです。
細かい例を挙げましょう。
ジャズではソロを回していきますが、その際、先にソロを取っている人が演奏し終わるちょっと前に割り込んで入ることがよしとされます(そうでない場合もありますが)。
前の人がかっちりソロを終わるまで待って、自分は自分のコーラスからかっちりはじめるというのはジャズではやってはいけないことなのです。
自分のソロが終わるときもやはりかっちり終わらずに、次の人のパートにちょっとかぶるぐらいがいいソロとなります。
一方日本の教育現場では、何をするにせよ前の人がちゃんと終わるまで待って、自分の番がきたらはじめる、そして次の人に迷惑をかけずに終わるべき、と教えられます。
日本の児童教育とジャズは、終始このように反発しあうものです。
ジャズを教えるなら、極端に言えば日本の常識を度外視するべきだし、日本人として教育するならジャズを題材にするべきではないと僕は思います。
はい、そうです。
僕は教育家ではなくミュージシャンでありギター講師です。
一般的な意味での教育より音楽を優先します。
最後に、ブコメからお気に入りのひとつを貼って終わりにします。
最高ですね!
それでは皆さん、デストローイ!