人はいろんなものに価値を付与します。
○○は最高、△△はよくない、これはこうすべきだ、など。
別にそれ自体はあたりまえです。
しかし、「自分はそれをどのレベルで言っているんだろう?」と自分を客観視している人はまれです。
例えば、「○○のギターは完璧!」と言っている自分、ではその自分はどれだけギターに対する見識があるのか?
あらゆるジャンルのギターをきちんと聞いてきたうえで、あるいは自分がいろんなジャンルを演奏してきた上でそれらと比較し、完璧だと言っているのか。
もっとざっくり言うと、自分は誰かに評価を下すことができるレベルなのか?
といっても、そういったレベルにない人が発言するなということではありません。
「それを言ってる俺はどうやねん?」
と考えたことがあるかどうか、ということです。
恐らく、ほとんどの人はないはずです。
めんどくさいし、だいたい傷つくし、楽しくなくなるからです。
それよりも「○○最高!」と言って仲間と騒いでいる方が楽しいに決まってます。
しかし、少なくともその世界で食っていくことを目標にしている人は、「それを言っている自分は?」といった内省は常にしておくべきでしょう。
でないと、いつまでも狭い狭い主観の中でしかものごとを評価できません。
とはいえ、人は主観からは逃れられません。
しかし、その主観を客観視し、限界まで透明化することは可能です。
例えば、自分はあるアーティストが一番だと思っている。
でも、音楽に詳しい人はそのアーティストをたいしたことないと言う。
客観的に考えてその人の方が見識が上であれば、自分の中にある「○○は最高」は、もしかしたら見識不足がゆえにそう思っているだけで、その人のように自分も音楽に詳しくなったら「最高」と思わなくなるかもしれない、と予測することで、主観にヒビを入れることはできます。
そういったことを重ねていくと、いずれ殻が破れて、違った世界が垣間見えてきます。
まあそれはそれで新たな主観や思い込みのはじまりなんですが。
こういった話を、本質を当てるゲームだと勘違いする人がいますが、そうではありません。
本質が当たるか、それを見破れるかが問題なのではなく、自分の見識に様々な光を当て、あるいはいろんな角度から叩いてみて、とことん疑っていくことが大事だというだけです。
そうしていくことで、思考はいつまでも回っていくし、好奇心も消えにくくなるでしょう。
そう考えると、「○○は最高!」は思考停止であるとも言えます。