八幡謙介ギター教室in横浜講師のブログ

ギター講師八幡謙介がギターや音楽について綴るブログ。

音楽で「気持ち」を大事にすることは精神論ではない


八幡謙介ギター教室in横浜

横浜のギター教室でアドリブを教える際、生徒さんにある時点でイントロを出してもらいます。

これはどちらかというと、 最後の仕上げに近い課題です。

というのは、イントロをちゃんと出すのはかなり難しいからです。

 

テクニックや見識だけではちゃんとしたイントロは出せません。

そういったイントロではこちらは弾く気がしないので「それじゃ入れない」「それはイントロじゃない」「それはこの曲じゃないね」などと言って、はいもう一回となります。

そして生徒さんは「イントロってなに?」の無限ループに陥ります。

そこから脱出する鍵は、気持ちです。

「それじゃ入れない」と言われた生徒さんは、皆必ず「じゃあ、入れるイントロは?」「それをどうやったら弾けるのか」と熟考に入ります。

当然、その状態は自分が頭で考えている状態なので、どこを探っても答えは出ないし、いつまでたっても僕は入れません。

で、「僕に対して入ってほしい、一緒にやりたいという気持ちがないですよね」みたいなことも言います。

そこをあれこれ例えながらアドヴァイスしていくと、何度かに一回は入れるようになり、たまに「おお、弾きたい!」という気持ちにさせてくれます。

こういったことを精神論と言う人もいるでしょう。

しかし、それは違います。

というのは、精神とは、人間から独立した機関ではないからです。

運動は精神の影響を如実に受けます。

それは音楽も同じです。

頭の中でイメージをこねくり回しただけの演奏は、相手に違和感(不快感)を与える音として発音されます。

たとえば、誰かと話していて、相手が上の空な状態ならすぐに分かりますよね?

また、そういった人とは会話したくなくなりますよね?

それと同じです。

受け手が繊細なら、いくらイントロが適切でも、相手が上の空(こちらを無視している)であることをキャッチしてしまい、一緒に演奏できなくなります。

一昔前はそれが当たり前でした。

一方、”相手”に発するようなイメージで発音したとき、それとは違う印象が確実にあります(もちろん、そのイメージがちゃんとしている場合に限りますが)。

受け手としては、自分に発してくれている、一緒にやりたい、一緒にやったら楽しそう、といった感情になり、自然と曲に入れます。

そして、そういう気持ちになれたとき、グルーヴはもちろん、自分の楽器から発せられる音も確実に違っています。

 

もっと単純な話に変えましょう。

例えば、仲のいい友達と話しているときと嫌いな上司と話しているときでは、声の質が確実に違いますよね。

それは自分の意志で声質を変えているのではなく、気持ちが勝手に声を変化させているのです。

仮に精神と肉体や運動が別であるならば、そんな現象は起きないでしょう。

音楽に話を戻すと、気持ちはサウンドやグルーヴなど、演奏に如実に表れます。

というか、気持ちが音楽を支配していると言っても過言ではありません。

ミュージシャンが学ぶべきはそこです。

記号だのタイムだのと言っているうちはまだ何も始まっていません。

ではその、精神論ではない「気持ち」をどこで学べばいいのか?

そこは各々で探すしかないでしょう。