西洋音楽では、オリジナルであることが強く求められます。
誰々風の演奏は、仮に音大の授業であっても強く戒められることもあります。
また、プロが誰々風の演奏をしていれば、「なんでこの人は自分の演奏をしないんだろう?」と不思議がられ、能力を疑われたり、ときにその姿勢を蔑まれます。
西洋音楽を演奏するということは、自分のサウンドで自分の演奏をすること、自分の楽曲――誰々風でない――を作ること、自分のパフォーマンスをすることに他なりません。
しかし、日本ではそこまで我を通すことは難しく、また、誰々風の方が高い評価を得ることがあります。
楽曲のコピーも、アレンジを加えるよりできるだけオリジナルに近いサウンドで完コピされたものに称賛が集まります。
また、楽曲や演奏についても、『誰々っぽい』とか『○○(有名な海外のバンド)みたい』という評価は得てして褒め言葉として成立しています。
こうした土壌でオリジナルが生まれにくいというのは当然と言えるでしょう。
さらに、日本ではオリジナル待望論が常に囁かれているにもかかわらず、本当にオリジナルなものが生まれてしまうと躊躇し、とりあえず反射的に否定するか、蓋をしてなかったことにしてしまう傾向があります。
昨今のグループアイドルや、ベビーメタルなどがそれです。
恐らく日本人は、本能的にオリジナルであることに不安や恐怖を抱いてしまうのではないかと思います。
だから何らかの拠り所を探してしまうのでしょう。
しかし、その感覚は西洋音楽とは真逆です。
西洋音楽を演奏し、それを自分のものにするということは、唯一無二、絶対的なGOD――日本的な神ではなく、西洋的なそれ――を目指すことに他なりません。
そう考えると、やはり日本人にはかなり難しいことであると再確認できます。