日本人が何らかの技術を磨きその完成を目指していくとき、必ずみられる傾向があります。
まずはそれを考察してみましょう。
日本人にとって、技とは、単なる表現のためのツールではなく、それ自体を研鑽しつつ、同時に己の精神を磨くために存在します。
個人的にそういう概念に興味がなかったとしても、文化的にはそういった側面が強いといえます。
また、若いうちはそうでなくても、日本人なら年齢を重ねるごとにやはり精神的な側面を重視するようになってきます。
そして技が高まるにつれて人間的に温厚になり、おごらず、よりいっそう謙虚になっていくことが理想とされます。
また作品においては、技が高まれば高まるほどケレン味や派手さが消え、シンプルで無駄のない形になっていき、それを「美しい」と判断するようになります。
ざっくり言うと、日本人が目指す完成形は、
・徳の高い人物
・無駄のないシンプルな作品
の二点と言えるでしょう。
ではこの二点と西洋音楽を比較してみましょう。
といっても、比較するまでもありません。
西洋音楽にはこういった概念はありませんし、むしろ真逆でなければならないといえます。
ロックミュージシャンはいくつになっても反抗的で、ガキで、ギラギラしていなければならず、ジャズやファンクはどこまでもエネルギッシュで、アクの強いものでないと魅力が落ちてしまいます。
徳の高い坊さんみたいなロックミュージシャンなど成立しませんし、極限まで無駄をそぎ落としたジャズというのも考えられません(そもそも、ジャズの技法自体、無駄とか無理のオンパレードなので)。
このように、日本人が技を磨き、完成を目指していくと、どこかで西洋音楽と相容れなくなってしまいます。
そういったことを考えたことがなくても、誰しも口にしたことがあるはずです、そう、「いい歳して」という言葉がそれです。
さすがに、2015年にもなって「ロックは不良」と言う人はいないと思いますが、30過ぎてまだロックに没頭していれば、どこかで「いい歳して」と必ず言われるでしょうし、世間の冷たい目線もひしひしと感じるでしょう。
西洋音楽を演奏し、その完成を目指していくとき、ある時点で必ず日本人である自分との葛藤が生まれるはずです。
それは世間体とかそういった次元の話ではなく、上記のように、日本人である自分が本能的に持ち合わせている――本能的に希求する――精神性や作品に対する美意識と、西洋音楽との矛盾です。
ここを解決しなければ、西洋音楽を本当の意味で自分のものにすることはできないでしょう。
とはいえ、日本社会において、いつまでもロックなガキでいること、いくつになってもエネルギッシュでアクの強い人間でいることは、一流大学に入って有名企業に就職するよりも難しいことなのかもしれません。