ジャズギターというジャンルは、ロックの台頭でジャズそのものと同時に一旦滅び、そしてフュージョンという名で生まれ変わったかに見えましたが、結局それも行き詰まり、ここ10年近くはもう完全に泥沼にはまって身動きが取れなくなっていると言えます。
僕が音大生だった2000年頃には、ジャズギターの可能性は大いに論じられ、ギターにしかできない新しいジャズがどこかにあるはずだと誰もが信じていました。
誰かがそれを発見し切り開いていくはずだ、できれば自分が!
そう信じて、ジャズギタリストたちはハーモニーを拡大し、テクニックを磨き、演奏やレコーディングを行いました。
しかし、それらはいずれもジャズギタリストでさえ敬遠するようなマニアックな内容であったり、あるいはビバップやフュージョンの焼き直し、再解釈に過ぎず、ジャズギター全体、ひいてはジャズ全体を揺るがしリードするようなジャズギター作品はこんにちまで現れていません。
それどころか、新しいジャズギタリストに関しての話題が年々減ってきているような気さえします(僕が熱心なジャズフォロワーでないからかもしれませんが、逆に言えば、そうした”外部の人間”にまで噂が伝わるほどのホットな新人がいないということ)。
結局、暗黙のうちに期待されていたジャズギターの役割――ジャズの未来を切り開くのはギターである――は、幻想に過ぎなかったということがはっきりしました。
それどころか、ジャズギターを考察してみると、その本当の役割は「BLUESフィーリング」にあるということが判明しました。
前回の記事でそれを書き、多くの方が賛同してくださったことから、やはり皆うっすらとそれを感じていたということも分かりました
「ジャズギターの役割としてのBLUESフィーリング」とは、何も難しい話ではなく、あれこれテクニカルな人はいっぱいいるけど、結局ケニー・バレルやグラント・グリーンのようなブルージィなのが一番しっくり来るよね、と誰もが感じている、というお話です。
こんにち的なジャズギターが本当に求められているのなら、半世紀も前のアルバムなど誰も聞かないでしょう。
そうではなく、いつまで経ってもやっぱり半世紀以上前のアルバムが輝いているのは、少なくともジャズギターに誰も進歩を求めてはいないというひとつの証拠です。
では、そういった昔日のBLUESフィーリング漂うジャズギターへの「原点回帰」といった動きはジャズギター界にあるのかというと、まったくといっていいほどありません。
なぜかというと、ジャズギターでは相変わらず難解でテクニカルな演奏が持てはやされているからです。
本来なら、そういった時代にそぐわないもの、聴衆が求めていないものは自然淘汰されていくはずですが、ジャズギター界ではそうした一般に求められていない演奏ほど細々と長生きするという奇妙な現象が起こっています。
次回はそこに焦点を当てたいと思います。