ジャズにおいて自己主張は非常に大切な要素です。
そもそも、主張したいことがあるからアドリブをするわけで、それがなければジャズをやる意味はありません。
さらにその自己主張は<逸脱>することをよしとするものであると本シリーズでは述べてきました。
ではジャズに<譲り合い>はないのでしょうか?
ジャズとはそれぞれが好きに自己主張するカオスな音楽なのでしょうか?
もちろん、答えはNOです。
ジャズにも当然<譲り合い>は存在しますし、それがないと音楽は成立しません。
ただ、ジャズの<譲り合い>は日本的なそれではありません。
日本的な<譲り合い>とは、
A「どうぞどうぞ」
B「いや、そちらからどうぞ」
A「いえいえ、そちらからどうぞ」
B「そ…そうですか(周りの空気を確認してOKだと分かると)では失礼して」
A(譲ったんだからあとでこっちにも配慮を見せろよ)
という感じです。
ではジャズの<譲り合い>はというと、
A「俺がやる」
B「いや、俺がやる」
A「いやいや、俺がやる」
B「そうか、じゃあやんな(そのかわりクールじゃなかったら承知しねーぞ)」
A「イエーイ!」
とこんな感じです。
日本の<譲り合い>はどうしても保身と責任回避の匂いがしてしまいますが、ジャズの(というかこの場合は西洋の)<譲り合い>は自己主張がぶつかり合った末に一番いいと思えるものに託すというニュアンスがあるように思えます。
また、セッションにおいてもはじめてのメンツだと<譲り合い>のせいでいつまでもダラダラと曲が始まらなかったり、誰がソロを取るかで一瞬空白ができてしまったりということがあります。
これは日本独特の現象といってもいいでしょう。
ジャズにおける<譲り合い>は、自己主張が前提です。
そして、その自己主張に負けた場合でも相手のことを尊重する寛容性も必要となります。
もちろんその寛容性の裏には「次は絶対俺が」という自己主張も存在します。
日本の<譲り合い>はどうしても、譲った自分に対する配慮を求めたり、譲られた方がなぜか損な役回りになったりしてしまいます。
また、自己主張する人間に全責任を押しつけたり、逆に村八分にしたり、後で陰口を叩いたりという文化もあります。
せめてジャズをやるときぐらいはそういったことは忘れて、自己主張を前提とした後腐れのない<譲り合い>で行いたいものです。