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「本気」の証明としての暴力・暴言について考察してみた

日野皓正児童虐待(ビンタ)事件については、元ジャズミュージシャン、そしてギター講師として考察してきました。

僕の見解は過去記事の通りですが、ひとつだけずっとひっかかっていたものがあります。

それは、「本気」の証明としての暴力・暴言についてです。

(「真剣」「熱意」などそれに類する言葉も、以下「本気」に要約します。)

これは今回の事件に限らず、日本社会に古くから蔓延している思想であり、あらゆる指導、教育(学校、家庭)、仕事などの現場で適用されてきました。

「本気だから殴った」

「お前を怒鳴るのは本気で育てたいからだ」

「(暴力・暴言は)指導熱心、教育熱心な証拠」

などなど、「本気」の証明として暴力・暴言を認めさせるための言葉はいくらでもあります。

しかしこれは詭弁です。

仮に「本気」のための暴力・暴言が許されるとするならば、習う側、養われる側、雇用される側にもそのロジックは適用されるはずです。

しかし、

「本気で習いたいから先生を殴る」

「本気で働きたいから上司に暴言を言う」

こんな理屈は絶対に通りませんよね?

「本気」の証明のための暴力・暴言は、指導者(上位者)にのみ許されている行為なのです。

この時点で不公平であり非論理的であることがわかります。

「本気の指導だから殴る」と公言する指導者は、「本気で習うから殴る」という生徒側の暴力を受け止める必要があります。

もちろん、その覚悟がある人も、それを許す人もいないでしょうが。

 

ではもう少し深く考えてみましょう。

そもそも「本気」って何なんでしょう?

「本気」とは暴力・暴言で証明できるものなのでしょうか?

これについては、僕のフィールドでは答えが出ています。

それは、ギターレッスンに来られる生徒さんが「本気」かどうかです。

教室に来られる生徒さんで、「本気で上達したい」「本気でプロになりたい」とおっしゃる方がおられます。

 

では僕がその「本気」を理解するために何か特別なことをしているかというと、一切何もしません。

なぜなら、その人が「本気」かどうかは課題の取り組み方や質問内容、レッスンの継続などで自然に理解できるからです。

当たり前ですが、生徒さんから暴力・暴言を受けなければその人の「本気」が理解できないなどということは絶対にありません。

これをそのままくるりと裏返せば、先生(上司、親etc)から暴力・暴言を受けなければ本気が理解できないというはありえないのです。

暴力・暴言などなくても、業務への取り組み方や人との接し方、教え方・習い方から「本気」は十分伝わります。

 

だとすれば「本気」という言葉には何の意味もなくなります。

なぜなら、本当の意味で「本気」の人は、その内容が必ず行動として具現化され、合理化されていき、その結果「本気」と言う曖昧な言葉も、それを証明するための理不尽な言動も必要なくなるからです。

「本気」に中身があれば、ただそれをやればいいだけです。

仕事なら仕事、ギターの練習ならギターの練習、部活の指導なら部活の指導。

そういったやるべきことをせず、暴力・暴言で「本気」を証明しようとする行為自体が、その人の「本気」に中身がないことを証明しています。

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