「共感」でものを習っても後には何も残らない

人は共感したがる生き物です。

そして、共感できる人と群れます。

それ自体は問題ありません。

しかし、何かを習う際、先生に対して「共感」という尺度を持ち出すのはどうでしょうか?

一見何の問題もなさそうですが、過去を振り返ってみると、共感できる先生から習ったことは結局何も残っていません。

むしろ、習っていた当時はなにも分からなかったり、掴めそうで掴めないといったケースの方が、後々役に立っていることが多いような気がします。

 

そもそも、生徒側に共感が生まれるということは、悪く言えば生徒さんレベルで何かを教えていることになります。

それって意味なくないですか?

何かを習うなら、自分より圧倒的に知識や経験や技能が上の人に習うべきですよね?

また、そういった内容を教えてもらいたいと思うはずです。

もちろん、そこに「人対人として共感したい」という気持ちもあるのでしょうが、それが強すぎると内容そっちのけで先生や教室を選んでしまう可能性があります。

人は自分が知りもしなかったことを習ったり聞いたりしたとき、共感よりも驚いたり、反発したりします。

あるいは、呆然としてわけがわからなくなります。

そこに不安を覚える人も多いでしょう。

しかし、そういったある種ショックな出来事を体験することで、成長のきっかけとなるのです。

「共感」は、そういった先に進む原動力としては弱いのです。

生徒側は、「この先生なら分かってくれる」と安心できますし、先生は「沢山共感してあげればこの生徒は辞めないだろう」と、スタンスを変えることはないでしょう。

そして後は、双方がぬるま湯に浸かっている状態が続きます。

自分が習っていたときや教えるようになってから、計らずもそうなってしまったことが何度もありますが、こうなるともうダメですね。

ですから、せめて教えるときはぬるま湯状態にならないように気を付けています。

そうすると共感を求めて来る生徒さんはびっくりしてすぐ辞めたりしますが、それはもう仕方ないと思っています。

僕は辞めさせないためのテクニックとして「共感」を演出することはしません。

 

もちろん、共感がゼロだと寂しいし、不安にもなりますが、さすがにそこまで極端なケースはまれでしょう。

ですが、共感をものさしにして先生や教室を探すのはやめた方がいいです。

心地いい、安心できる時間は過ごせますが、逆に言えばそれだけで終わります。

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