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記号の奥に人間が見えないと不気味に感じる、という話

人は本来、記号に対して感情を持ち合わせていません。

それどころか、記号自体に不気味さすら感じます。

ただし、その奥に人間が見えれば別です。

記号の奥に人間が見えたとき、良くも悪くも感情が生まれ、何かしらのリアクションを自然ととっています。

身近な例で例えてみましょう。

 例えば、スマホに一通のメールが非通知で来たとします。

相手は誰だかわかりません。

文面は、「最近どうしてるの」「元気?」など、なんでもないものです。

(この文面=記号です)

こんなのが来たら、不気味ですよね?

なぜかというと、相手が誰だかわからないからです。

記号(文面)の奥にいる人間が見えないので、どういう感情で接していいかわからず、不気味に感じてしまいます。

 

ではそれが親しい友達だったら?

あるいはめんどくさい上司だったら?

いずれにせよ、感情はすぐに生まれます。

 

音楽も同じです。

コードやスケールという記号を組み合わせただけの演奏には、人は本来感情を抱くことができません。

ただ、ほとんどの場合はプレイヤーの姿が見えていたり、経歴、名声などを知識として先に知っているので、記号だけで演奏されたとしても、聞き手が勝手に補完してくれています。

とはいえ、記号だけの演奏は心に響かず、どこかもやもやした気持ちが残ってしまいます。

私見ですが、人は人工的なものに接するにあたり、本能的にその奥に人間がいるかを確認しようとするのでしょう。

そして、そこに人間がいなければ違和感を感じ、警戒します。

漫画を読んで「なんかつまんない」と感じたり、音楽を聴いて「上手いんだけどな~」ともやもやしたりする原因は、そこにあると僕は考えます。

芸術の”術”とは、相手にその違和感を起こさせない技術のことでしょう。

ただ記号だけを上手に扱っているだけでは、芸術でもアートでもありません。

そんなヒントは、上記のメールの例のように、日常に転がっていると僕は思います。

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