アドリブ演奏がどこか日本人の気質と合わないのは、日本人独特の安定志向によるものだと僕は考えます。
例えばあなたがアドリブを勉強しはじめたとします。
最初は右も左も分からず、いざ実践してみると緊張や不安や照れなどであっぷあっぷしてしまうでしょう。
あなたは溜息を吐き、こう思うはずです『ああ、いつの日か自分も安定したアドリブができるようになるのだろうか? 緊張せず、不安もなく、リラックスしてすらすらアドリブが弾けるようになるのだろうか?』
そして、そこに向かって日々努力を重ねます。
これが日本人インプロヴァイザーの典型です。
安定してアドリブができるようになる日は、一生懸命取り組めばいずれやってきます。
しかし、そこに到達したプレイヤーがハッピーかというと、実は真逆です。
いつでも、だいたいどんな曲でもアドリブがきちんと弾けて、楽曲を成立させられる、しかも盛り上がりもちゃんと作れるというレベルになったとき、大抵の人間はアドリブに絶望します。
自分が追い求めてきたものはこんなチンケなものだったのだろうか?こんな、手持ちのフレーズを上手に組み合わせただけの予定調和な段取りを自分は本当に目指していたのだろうか?と。
そして、絶望の裡にやめていくか、それともアドリブが安定的にできる(そのおかげで安定的に仕事がこなせる)という安寧にしぶしぶあぐらをかくか、それともさらなる苦しみに悶えるか……いずれにせよ、そこにかつて憧れた幸福はありません。
アドリブは、”安定”を目指すものではありません。
アドリブは、絶えざる改革であり、開拓であり、冒険であり、不安、恐怖、緊張、枯渇、といった概念が常につきまとうものです。
どこまで行ってもそうです。
やはり西洋的な概念であり、日本人にはない価値観だと改めて感じます。
何度も言いますが、日本人が抱く「安定への到達」という概念は、アドリブにはありません。
アドリブを学ぶ人は、それを最初からきちんと理解するべきだと思います。
どこにも安定がない、到達するポイントがない、ということを最初から分かっていれば、正しく不安定な、冒険的なアドリブをいつまでも追求できるのではないかと思います。
また、そこそこ弾けるようになった段階で簡単に守りに入ってしまうこともなくなるでしょう。
安定を目指すから壊すことをためらってしまうのです。
最初から安定がないと知っていれば、積み上げてきたものをぶち壊すことになんの躊躇もなくなります。
そして、それを行ったとき、意外にも振り向いてくれる人、肩を叩いてくれる人がいることに気がつきます。
それもこれも、本当に壊さないと分からないことですが。